◆◆◆

 夕暮れの埠頭に、ほとんど人影はなかった。
 倉庫街の隅に停められた古びた作業車――その運転席で山吹はシートに背を預けたまま、ダッシュボードに足を投げ出していた。外装は錆の浮いたグレー。ドアには「水道整備」「臨海分室」といったステッカーが貼られている。雑な作りではあるものの、中にいるのが私服の刑事だと気づく者はいないだろう。

「……で、これって水道屋って設定で合ってるか?」

 ハンドルを軽く叩きながら、山吹は隣へ訊ねた。助手席の時雨がわずかに顎を引く。視線は倉庫へ向けたまま。

「正しくは排水点検員、ですね」
「ふーん……」
「仕事内容の説明もしておきましょう。各種配管の老朽化チェック、水圧測定、浸食の進行具合に応じた内部カメラの挿入。必要に応じてトラップの分解清掃も行います」
「いや、いるか? その知識。使わねーだろ」

 会話にも集中できず、集音マイクから聞こえる音に意識を凝らす――八雲は対象と接触したらしい。声は今のところ落ち着いている。だが、その冷静さがかえって危ういと山吹は思う。

「ガキの癖に妙に大人ぶりやがって」
「ああいうタイプは、土壇場で折れやすいですよ」

 子供を心配する大人の声で、時雨。けれど横目で様子を窺えば、彼は感情の抜け落ちた不気味な顔で倉庫を見つめていた。

「だから、こういうときにやめろよ。趣味わりぃぞ」

 こんなときでさえぶれない相棒に呆れ半分、感心半分。そんな感想を平時では気にも留めない時雨が、ふと目を細めて言った。

「千晴君は、他人には折らせたくないんでしょう?」
「なんの話だよ」
「君は存外に独占欲が強い、という話です」

 それこそ、なんの話か分からない。

「それとこれと――……」

 なんの関係があるのかと訊き返そうとしたときだった。
 ザザとマイクの音が乱れる。一瞬で意識を引き戻され、山吹はモニターに視線を戻した。そこに映像は映っていない。相手に気取られないよう、八雲には小型カメラは持たせなかった。ラジオのように流れてくる音声に、ただ耳を傾ける。
 対峙している相手は男だ。いかにも未成年をカモにする詐欺師らしく、声色は軽薄なまでに優しい。ホスト崩れのチンピラなのかもしれない。彼らのような小悪党の毒は、未成年によく効く。特に家庭に不満を持つ、白崎のような子供にはてきめんに。
 彼らは耳障りのいい言葉と上辺の優しさで、子供たちが求める理想の大人を演じるからだ。そして少しずつ暴力で支配する――

「万が一にもしくじることはなさそうだな、相棒」
「しくじる可能性を考えていたんですか? 君が?」

 時雨が意外そうに眉を上げる。本気で驚いているようだ。心外だなと思いながら、山吹は唇を尖らせた。

「ガキが囮になってんだぞ」
「……つくづく、今回は正義の味方ですねえ」
「なら、いつもと同じだ。改めて言うなよ、照れるだろ」

 どうにも会話が噛み合わない。そう感じているのは時雨も同じだったのだろう。肩を竦め、話題を変えた。

「人数が増えた。このあたりが潮時ですね」

 モニターを指さし、優雅に唇をゆるめる。

「ぞろぞろと、やつらゴキブリと変わらねえな」
「いいじゃないですか。嬲り甲斐はある」

 相棒のその言葉を合図に、山吹はアクセルを踏み込んだ。倉庫の近くをうろついていた見張りがひとり、作業車の勢いに驚いて横へ飛び退き、尻もちをついている。

「逃げられても面倒だから、ぶつけておくべきだったか?」
「どうせ遠くへは行けませんよ」

 モニターから聞こえてくる男の声が、時雨の言うように彼らの終わりを告げていた。

『……顔に傷はつけるなよ。商品価値が下がる』

 今頃は集団で八雲を囲んでいる頃だろう。そんな想像で激高するほど青臭くもなかったし、むしろ悪党を死ぬまで殴るための口実としては願ったりだったのだが――ふと。
 集音マイクが雑音の中から、小さなささやきを拾った。
 ――たすけて、やまぶきさん……
 その瞬間、全身の血がぶわっと沸騰したような気がした。

「アイツ、オレの名前を呼んだぞ」
「大方、君の名前を呼んだところで力尽きたとか、そういったところでしょうに……ポジティブですね、千晴君」
「いや、これはあれだ。なんつうか――」

 全身が震えるような快感に身を捩る。

「気が利くじゃねぇかよ、蛇尾八雲」

 少女の名前をはじめて呼んで、その余韻を噛み締めた。
 ヒロインが名指しで助けを求めたその瞬間に登場して、悪を完膚なきまでにぶちのめす。古今東西のヒーローが通ってきた道だ。そのための力が――正義が自分にあることを、山吹は知っている。必要なのは認知だった。
 正義としての、認知。




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