夕暮れに、声

 港の空気は冷たく澄んで、世界はいつもより明瞭だった。地平線に沈みゆく太陽は、まるで海に溶けていくようにも見えた。
 世界が赤く、寂しく燃えている。激しさを失い、あとはただ消えるのを待つ炎のように――べたつく冷えた潮風にわずかに顔を顰め、蛇尾八雲は息を吸った。
 静かに。呼吸に必要な分だけ。
 それでも不吉な鉄錆の臭いが肺腑を侵した。
 たった、ひとり。
 残照に焼かれ、足元から長く影が伸びていたとしても、それがもうひとり分に数えられるわけでもない。どこからこちらの様子を窺っているとも知れない敵対者を除けば、今この瞬間、八雲はひとりきりだった。

(大丈夫。多分、大丈夫)

 幼い頃から何度となく繰り返してきた呪文を唱える。これまで、どんなことも乗り切ってきた。よく可愛げがないと言われる平然とした顔で。時には牙を剥きながら。それでも傷付いたそぶりだけは見せずにきたのだ。絶対に。
 他人の悪意を鼻歌交じりに叩きつぶす叔父のやり方を、ずっと見てきた。そして刑事たちと出会い、今はいっそう切実に感じている。堂々と生きるためには強さが必要だ。
 大人たちが自分を押し付け合うさまを、なすすべもなく眺めていた――十年前のあのとき叔父に救われた惨めな子供は、もう三年もすれば成人する。

(わたしも猛晴くんや山吹さんたちのような大人にならないと……強い大人に……)

 未来への確信も持てないまま、足を踏み出す。
 遠くでカモメの鳴く声に、時折貨物クレーンがアームを揺らす金属音が混じって、なんとなく耳障りだった。
 ――山吹さんたちにも、この音は届いてるのかな。
 パーカーの胸元には、小型の集音マイクを付けている。シルバーのバッジやチェーンといった装飾品に紛れさせた形だ。周囲の音を拾うだけなので山吹たちと会話は交わせないが、少し離れた場所で待機している彼らにはすぐに状況が伝わるようになっている。八雲の役目は相手から自供を引き出し、自らを危険な状況の手前まで追い込むことだ。
 ――未成年に危害を加えた、という状況証拠を作る。
 刑事たちからは未遂でいいと言われたが、いざとなれば肉を切らせて骨を断つくらいのことはしなければならないかもしれない。そんな覚悟も、薄っすらとしていた。
 周囲には同じ形の倉庫がいくつも並んでいる。
 入口に割り振られた番号を順に見て、6のところで足を止めた。赤茶色に錆びついたシャッターが、まるで獣のように口を開けている。中は暗く、様子は見えない。
 と――
 ポケットの携帯電話が震えた。通知を確認する。新着DM一件の表示に、八雲は思わず顔を上げた。

(見られてる)

 慌てるふりくらいはするべきかと迷ったが、結局そのまま倉庫の中に足を踏み入れた。DMの内容は見なかった。顔を付き合わせる直前に大事な用件を送って来るとは思えない。きっと、こちらの動揺を誘うためのはったりだろう。
 万が一にも、呑まれるわけにはいかなかった。
 怖気づくわけにはいかなかった。
 子供がひとり土壇場で怖気づいたところで、刑事たちの大捕物に支障はない。そのことは分かっている。
 だからこそ。

(後ろに保護者が付いてる状況で怖がってたら、きっと、一生守られるだけだ。だれにも、なににもなれずに……)

 倉庫の中は、存外に明るい。高い位置に作られた窓から夕陽が射し込んで、あたりを染めている。天井の鉄骨から吊るされた電球は割れて、使い物にならないようだった。
 八雲は拳を握りしめ、息を吸い――吐き出した。

「見てるってアピールするくらいなら、出迎えてよ」
「あれ、そんなにビビってない?」

 奥から姿を現したのはホスト風の男だった。歳は二十代後半くらいだろうか。明るく染めた髪の下でにやついた暗い瞳が、やけに癇に障る。無表情で見つめていると、彼は少し声色を変えた。

「気を悪くしないでくれ。未成年に合わせる癖がついていてね。君ら、仲間内だとこういうノリだろ?」
「どうかな」
「そうか。君らは……白崎と君はクラスでも鼻つまみ者だったか。辛いよな、普通の子たちと同じになれなくて」
「未成年に合わせる癖がついてるわりに、言葉選びが老人くさい。鼻つまみ者なんて言い回し、今時聞かないし」

 男の目元がひくりと引き攣った。気がした。

「君、立場分かってる?」

 それでも声音は変えず、男が諭すように告げてくる。

「脅しているわけじゃないよ。オレは、君たちの味方だ。君たちのようなワケアリの子が自立できるよう、稼ぎ方を教えてやってる」

 耳障りのがいいだけの、犯罪者の欺瞞。
 その言葉に嫌悪感は抱かなかった。ただ虚しさを感じた。
 目の前の男は、物語の世界にいるような巨悪ではない。どこにでもいる小悪党だ。正義のヒーローに拳ひとつであしらわれ、見せ場ももらえないような。そんな小者に、白崎はあっさり殺された。血の繋がった父親に積み上げてきたものを台無しにされ、見下していた級友に現実を突きつけられ、誰にも助けを求められず。
 死の間際、藁を掴む代わりに八雲を同じ地獄に引きずり落とすことしか考えられないほど、追い詰められて死んだ。
 同じように食い物にされているワケアリの子供たちも、彼らにとって足元を歩く蟻のようなものなのだろう。餌を運んでくるが、代わりは効く。いつでも踏み潰せる。
 そして八雲自身、日常を脅かされている。それが現実だ。
 どうしようもないほどの現実。
 彼らのような仕様もないチンピラにさえ人生を食いつぶされるほど、自分たちのような未成年は無知で無力で――

「信用できない。白崎を殺したでしょ」

 胸のうちで渦巻く激しい感情を呑み込み、言葉を選ぶ。




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