そのささやきに、名はまだない

 警視庁、捜査二課のフロア。

「千晴君、課長からです」

 ノックの音とともに聞こえてきた紳士的な声は、けれどどこか不遜さを伴ってもいた。痩身に眼鏡の神経質そうな風貌――相棒の時雨賢人だ。
 山吹千晴はまとめていた書類を投げ出すようにデスクに置くと、げっそりと顔を上げた。

「また会議かよ。午前の資料もまだまとめてねーのに」
「ええ。でも、今回は面白い話らしいですよ」
「ふうん……?」

 いくらか懐疑的に訊き返したのは、この相棒の面白いと自分の面白いにズレがあることを知っていたからだった。
 山吹は正義に傾倒する。自らをヒーローと自称する。
 勿論、子供のような無邪気さでそれを信じているわけではない。人にとっての正義とは、マジョリティの意思である。
 そうした世界の在りように納得した上で、山吹は大衆の総意としての正義を愛している。正義のヒーローとして、絶対的な力を振るうことのできる自分を愛している。
 悪を殴ることは気持ちが良い。人から賞賛されれば猶更。それは人間が内に抱える暴力衝動と承認欲求とを同時に満たす、唯一の手段だった。
 一方、時雨はそうした欲求をほとんど持たないらしい。この相棒は純粋に、獲物を追い詰めることが好きだった。あるいは、追い詰めた獲物からなにもかもを奪うことが。人生の絶頂からどん底まで叩き落とすことが。
 そのあたりの感覚は、山吹には分からない。そういったものとして説明することは容易いが、本当の意味での理解には――互いに――及ばないだろうとも思っている。
 ともあれ、今は仕事の話だ。

「二課で追っていた情報商材詐欺の件があるでしょう?」

 時雨が静かに続けてくる。
 捜査二課では、現在とある女子高生に目を付けている。女子高生インフルエンサーで、副業女子としてSNSで随分と話題になった人物だ。顔は隠し、声も加工していたため、一部では本当に女子高生かと疑う声もあったが。
 彼女が有名になりはじめた時期と、生活安全課への被害相談の増えた時期が一致している。共通点はそれだけだが、情報商材詐欺の手口は副業ブームに便乗したものが主流となっているため、あながち深読みとも言い切れない。
 被害件数が百件を越えたあたりで、事件の対応は二課へ移管された。二課では、彼女が情報商材詐欺のフロントになっているのではないかと関係者候補に入れていた。

「進展があったんだな!」

 山吹は目を輝かせ、椅子からガタンと立ち上がった。

 「まあ、それなりに」

 落ち着いた口調と裏腹に、時雨の顔には含みがあった。犯人特定より、もっと興味深いことがあったのかもしれない。

「んじゃ、ヒーロー出動といくか」

 ――相棒にとっての狩りと同じくらい、オレにとっても面白い悪党退治になるといい。
 声には出さず歩き出す。それが、はじまりだった。
 会議室には課長と情報分析センターの分析官がひとり。彼らは山吹と時雨を迎えると、早々に話を切り出した。

「昨日、某所で未成年の遺体が上がった。名前は白崎凛。都内の高校に通う三年生だ。例の事件で女子高生インフルエンサーとして、捜査線上に上がっていた人物でもある」
「死因は」

 短く訊ねたのは時雨だ。
 こういうとき、山吹は黙っていることが多い。相棒という立場でも、組織として見れば時雨の方が先輩だ。
 加えて、慇懃な彼の方が上司との会話も問題なく進む。

「転落死。現時点ではな」

 と、課長が答えた。

「例の彼女のSNS、履歴が半分ほど消されていまして」

 隣から、分析官が補足してくる。どこか白衣を思わせる薄いグレーのジャケットに痩身を包んだ男だ。

「なるほど、裏がありそうだと?」

 問いかけに対する答えは、ふたたび課長が引き継いだ。

「それをお前たち二人に調べてもらう。学校関係への聞き込みとSNS上での動きの洗い出し。問題は起こすなよ」

 ちらとこちらを見つつ、念を押す。

「了解」

 ひらひらと手を振り、山吹は踵を返した。背後で彼らに一礼した時雨の、呆れ声が追いかけてくる。

「いつも言っているでしょう。一礼してから出なさいと」
「いいじゃねぇか。どっちか一人がやれば十分だろ」
「そういう問題でもないんですけどねぇ……」

 肩を竦めつつも、それ以上しつこく言わないのは相棒のいいところだった。建前も含めて、後輩に注意することは怠らない。反面、どうでもいいことにこだわりもしない。
 それで重要な忠告が埋もれてしまっては意味がない、と以前彼は言っていた。その意味は、よく分からないが――

「さて、捜査だ」

 そういうことになった。
 仕度を整え、セダンに乗り込む。シルバーのクラウン。運転するのは山吹で、時雨はいつも後部座席だ。

「そういえば、千晴君」

 調査書類に目を通しながら、時雨が声をかけてくる。

「今回の件、君に関わりのある相手ですよ」
「はあ?」

 身に覚えもなく、ルームミラー越しに訊き返す。
 時雨は人差し指で眼鏡の位置を直し、続けてきた。

「白崎――この名前に聞き覚えはありませんか?」
「ぶん殴った悪人の名前なんかいちいち覚えてねぇし」
「二か月ほど前、君は電車で痴漢を捕まえたでしょう?」

 そう言われて思い出した。

「ああ、ああ!」

 犯罪者を捕まえた記憶には、常に快楽が伴う。
 時にやりすぎと窘められないこともなかったが、大抵は賞賛でもって歓迎される。
 二か月前も、確かそう――
 山吹は、時折電車を利用する。
 今はもう、学生時代の頃のように電車だけが移動手段のすべてではない。むしろバイクや車を乗り回すことの方が多いが、それでもやはり電車内という場所は特別だった。
 大切なことに気づいた最初の経験――痴漢を殴りつけて周囲から認められた。その記憶が鮮烈に焼き付いている。
 初心忘れるべからず。
 というほど殊勝な話でもなく、経験として知っている。苛立っているとき、もっとも手軽に気持ちよくなれるのが痴漢狩りであると。
 彼らを見つけるのは容易い。容易い上に捕まえやすい。走行中の電車という閉鎖空間。周囲はトラブルを避けるため、敢えて見ないふりをする。だが見ないふりをしているだけで、人の目そのものは多い。
 ――休暇中の刑事、電車内で痴漢を逮捕。
 二課の案件に慣れた今となっては派手さには欠けるが、むしろ直接的なヒーロー扱いという意味ではこちらが勝る。
 電車内、そして駅構内という一般市民の集まる場所で、注目と尊敬を一身に集める。その瞬間の高揚感といったら。
 思い出し、興奮に身震いした。

「……で、ええと、なんだって?」

 それを相棒に悟られないよう、素知らぬ顔で訊き返す。時雨も特に気に留めることもなく続けてきた。

「君が捕まえた痴漢の話ですよ。白崎という男でした」
「白崎……? それって」
「ええ。白崎凜の父親だそうです」
「あー、なるほどな」

 ようやく繋がった。

「つまり親父が痴漢で捕まったことをきっかけに娘の方も悪堕ちして、いろいろ行き詰ったって話だろ。じゃあ自殺じゃねえのか?」
「事はそう単純ではないと思いますがね」

 時雨の溜息をBGMに、セダンは滑らかに走り出した。






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