◇◇◇

「ねえ、蛇尾。新しいバイト探してんだって?」

 そう声を掛けてきたのは、クラスメイトの白崎だった。彼女とは同じ中学の出身だが、付き合いはほとんどない。特にこれといった理由があるわけでもないが、なんとなくそりが合わない。向こうも同じことを感じているのだろう。言葉を交わしたことさえ、数えるほどもなかった。
 そんな級友が珍しい。
 八雲は教科書を鞄に詰め込みながら、あー……と曖昧に唸った。昼休み、別のクラスメイトと受験の話をしていた。
 先日の模試の結果だとか、志望校の受験者倍率だとか、要は世間話だ。その流れで、叔父からバイトを辞めて勉強に専念するよう言われた話もしたかもしれないが。

「いや、逆だよ。バイトを辞めるかもって話をしただけ。受験に専念しろって叔父さんに言われて……」
「でも、蛇尾ってイソーローなんでしょ?」

 八雲が顔をしかめたことも然程気にしていない様子で、白崎は無邪気に――あるいは、悪意を持って続けてきた。

「親でもない人に養ってもらって、学費まで出させてさ」
「それ、アンタに関係ある?」

 チェーンレストランの代表取締役をやっている叔父は、それなりに有名だ。両親に捨てられた姪を引き取った話も知られている。
 うんざり訊き返す八雲に、彼女は肩を竦めてみせた。

「ないけど、でも厚かましいなって思うじゃん? 昔から家庭環境隠しもしないで、当たり前ですって顔で金持ちの叔父さんに養ってもらってるってさ。気まずくないの? それとも、あの噂ってマジ?」
「噂?」
「叔父さんとデキてるってやつ」

 ――ああ、挑発されてるな。
 腹を立てつつも、どこか冷静に思う。
 ヒステリックになれないのは、幼い頃からの癖だった。両親が揃っていた頃でさえ、激高した記憶はない。
 泣き喚いたり、逆に大声で笑ったこともほとんどない。

「そういう下世話な話、好きだったんだ?」
「怒った?」

 白崎が口元をニヤつかせながら覗き込んでくる。八雲はスッと目を細め、クラスメイトをじとりと見つめた。

「別に。ただ、アンタが言う? とは思ってるかな」

 一瞬、白崎が気味悪そうな顔をした。それはたとえば、感情の読みにくい爬虫類のような生きものを目の前にしたときの表情と似ていた。
 八雲は舌先で下唇を舐めて、続けた。

「うちの叔父さんは、未成年に手を出すような馬鹿な真似しないよ。他人に突かれて困る弱点、作る人じゃないから。現行犯でやらかしたらしいアンタんち父親と違ってさ」

 二年の終わり、春休み前の話だったか。彼女に関してもひとつの噂話が流れたことがあった。
 父親が、電車内で痴漢行為に及んだ――というものだ。相手は女子高生だったらしい。偶然にも休暇中の警官が居合わせたため、その場で捕まったのだと聞いている。同じ電車に何人かの同級生が乗っていたこともあって、話はあっという間に広がった。
 それでも彼女自身の学生生活に影響が少なかったのは、春休みを挟みすぐに受験シーズンに入ったからだろう。
 それなりに偏差値の高い進学高。大学進学以外の進路を考えている者はほとんどいない。人の不幸を揶揄する暇もなければ、まして今更いじめなどして内申点を下げたい者もいない。
 白崎の顔から血の気が引いて、紙のように白くなる。

(言い過ぎたかも)

 当てつけた八雲の方も、若干の気まずさを感じていた。ただ、それでも叔父への侮辱を許すつもりはなかった。
 互いに無言のまま睨み合う。
 先に口を開いたのは、白崎だった。体の横で拳を握り、震えながら吐き捨ててくる。

「せっかく、いい話を教えてやろうと思ったのに」
「間に合ってる。でも……」

 かぶりを振りつつ、八雲ははっきりと告げた。

「お礼に、こっちからもひとつ忠告」

 窓からは燃えるような夕陽が差し込んでいる。
 赤い教室の中、真っ白な顔をした白崎の瞳には憎悪とも失望ともつかない感情が不気味に揺らめいていた。きっともう、彼女と話すことは二度とないんだろうと思いながら八雲ははっきりと言った。冷えた声色で、たった一言。

「美味しい話には裏があるんだよ」

 案の定、白崎からの返事はなかった。






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