誰にも何にもなれないまま

 蛇尾八雲は賢い子供だった。
 七歳の頃にはもう、周囲から疎まれる自分を認めていた。
 ――世界には、どうやら自分の居場所がないらしい。
 そんな現実を知っていた。
 目の前から消えたのは、父が最初だ。数年後には母も。二人は学生結婚だったのだと、下世話な親戚が後に教えてくれた。避妊に失敗して大学を中退、籍を入れるも生活が上手く回らなかった――まあ、よくある話だ。
 要するに、彼らはやり直したかったのだろう。自分だけの人生を。ただそれだけだったのだ。覚えているかぎり、彼らから虐待を受けた記憶はない。いい親ではなかったが、きっと悪人でもなかった。
 八雲は親から愛されることも憎まれることもないまま、気づけば親族会議にかけられていた。
 まったく、笑い話にもならない。
 ずらりと並んだ大人たちは難しい顔をしていた。
 厄介な問題を残された。誰もそれを口にしなかったが、誰もがそう思っていたに違いなかった。自分以外の誰かに損な役回りを押し付けたい。そんな雰囲気も見て取れた。
 実際、話し合いは難航した。やれ、誰それのところにはまだ子供がなかっただの、うちは老人ばかりだから子供を育てる余裕がないだの言いわけに終始する親戚を眺めて、幼い八雲はその滑稽さを憐れんだ。
 彼らは真っ当な大人だ。真っ当な大人であるがゆえに、即断即決で八雲を施設送りにすることもできない。ある日突然ひとりになった子供の存在を疎みながらも、それでも。
 それはババ抜きのようなものだった。とはいえゲームと違うのは、ババが見えていることだ。誰も引かない。引くわけがない。かといって上がれもしない。
 そうして親戚たちが疲弊し苛立ってきた頃――
 遅れて、彼が現れたのだ。
 当時、まだ二十四歳だった叔父、牙頭猛晴は母の弟だった。
 八雲を除く親族の中では最年少ながら、発言力は大きかった。十年前でさえ、もう何店舗か店を経営していた。その優秀さは勿論のこと、彼の立ち居振る舞いはいつでも他人を圧倒した。
 脳の小さい草食獣でも、肉食獣の恐ろしさは理解する。そういう話だ。余程の間抜けでもなければ、本能の部分でそれを察する。牙頭猛晴は、奪う側に立つ者であると。
 和室の障子を開けるなり、彼は八雲だけを見据えた。
 陰気な顔の親戚たちには目もくれず、たった一言。

「こっちに来い、八雲」

 大人たちのババ抜きがあっさり終わった瞬間だった。

「なにを考えているんだ、猛晴」

 慌てて言ったのは、親族の老人だったか。
 年長者としての面子があったのだろう。揃いも揃って、子育ての子の字も知らない若者ひとりに就学したばかりの子供を押し付けた。そう思われては体裁が悪い。
 とはいえ、親戚たちの本音としては渡りに船ではあったのだろう。親族の何人かが「余計なことを言うな」という視線を老人に送っているのも感じたが――
 ひりつく空気の中、牙頭が小さく鼻を鳴らした。足元にしがみつく八雲を見下ろす彼の目は、身内の浅ましさに怒っているようにも見えた。

「面倒事はごめんだって顔してるやつらには関係ねえだろ」

 表情とは裏腹に冷え切った声で言った彼は、八雲と目が合うと少しだけ笑ってみせた。

「なんだ、お前。この状況でも顔色ひとつ変えねえのかよ。誰に似たんだ……って、手本にしていい大人はいねえな、この場にはひとりも」
「ううん。わたしは、猛晴叔父さんみたいになりたい」

 牙頭を見つめたまま、八雲は小声で言った。
 大事な秘密を打ち明けるように。

「叔父さんはやめろよ。まだ二十四だぞ、俺は」

 憮然と答えつつ、どうしてか少し苦しそうな顔をした。
 彼のその表情は、今でも覚えている。

(どうしてそんな顔をするの?)

 そんな簡単な問いすら投げかけることができないまま、奇妙な親子ごっこがはじまった。傍目には順風満帆だった、はずだ。牙頭は存外にいい父親役だったし、八雲も心から彼のことを慕っていた。ただ、それでも引っかかっているものはある。
 よくある親子喧嘩も反抗期も通って来なかった。ずっと凪いだ海の上で揺られているような関係だった。
 その平和と幸福を、果たして本当のものとして享受していいのだろうか。叔父は、牙頭猛晴は幸福だろうか。
 漠然とした不安を感じるたび、思考の外へ追いやった。もしかしたら恐ろしかったのかもしれない。同情と義務。そうと認めてしまえば、みたび家族を失うことになる。

 ――彼も、いつか自分の人生を取り戻したいと願う日が来るかもしれない。父母がそうだったように。

 ただ恐れるまま、気づけば十年が経っていた。
 蛇尾八雲、十七歳。高校生活三年目の春に差し掛かった。
 進路が決まっていなければ遅いと言われる時期だ。

「月並みなこと言いたかねえけどよ」

 バイト上がりにホールの隅で食事をしていると、牙頭が向かいの席に腰を下ろした。
 八雲が彼の店――ジョイキッチンでバイトを始めたのは中学に入った頃からだ。法的に問題があるため最初は皿洗いや開店前の店舗清掃しか許されなかったが、高校に進学してからはホールにも入れてもらえるようになった。
 蒸発した両親は少ない貯金をすべて持ち出していたし、残されたアパートには売って金になるようなものもない。親族の口出しを嫌った叔父はすべてひとりで始末をつけ、彼らからの支援を断り続けている。
 ならば、せめて自分の食い扶持分くらいは働かなければ居心地が悪い。そんな八雲の気持ちを、牙頭も理解していたのだろう。

「なあに、猛晴叔父さん」

 サラダをつつきながら、八雲はちらと牙頭を見やった。強欲で他人を信じていないという彼が、わずかに保護者の顔を覗かせる。その瞬間が、八雲は好きだった。

「あのな、叔父さんはやめろって言っただろ。自分が何倍も歳食った気になる」

 げんなりと言ってから、話を逸らされたことに気づいたらしい。彼は顔の前で手を振って、軽く八雲を睨んだ。

「誰に似たんだ、そういうとこ」
「猛晴くん。それか伊月先生かも」
「どっちにしても最悪じゃねえか」
「そういえば、最近伊月先生見ないね。忙しいのは分かるけど、たまには遊びなよ。おじさんたち働いてばっかで、息抜き全然しないし」
「だから中年扱いはやめろ。伊月が聞いたら落ち込む……じゃなくて、お前な」

 指先でトン、トン、と二回。
 ゆっくりテーブルを叩いたら「いいか、少し話を聞け」の合図だ。一緒に暮らすことになったとき、牙頭は八雲といくつかのルールを決めた。
 どんなに激高しても、二人のルールだけは必ず守る。
 そういう約束をした。
 子供を育てたことがない男と親から愛されたことのない子供が、家族として過ごすために必要なことだった。

「――うん。ごめんなさい、猛晴くん」

 フォークを置いて、話を聞く姿勢を作る。
 彼は苦笑で場の空気を和らげ、続けてきた。

「そんなに改まることでもねえんだが……お前、いつまでこのバイトを続けるつもりだ? そろそろ受験に専念する時期だろ」

 牙頭にしては本当に月並みな台詞だった。
 うるさい親のような言い方をした自覚もあったらしい。決まり悪そうに顔を顰めていたが。

「自分で言うのもなんだけど、わたし勉強できるんだよ。志望大学は合格判定出てるし……」

 彼が聞きたいのは多分そういう話じゃないんだろうなと思いながら、八雲は言った。案の定、牙頭は眉間の皺をいっそう深くしている。

「そうじゃねえよ。もっと、こう」
「夢とか?」
「あるのか?」
「ここの社員とか、それか弁護士」
「人の夢に便乗して、心にもないことを言うんじゃねえ」

 じろりと睨まれて、沈黙する。
 夕飯時のピークも過ぎて客の姿はまばらだ。手の空いた古株の従業員たちが何事かと心配して、ちらちら視線を送ってきているのを感じた。

「わたしは……」

 その視線を気にしながら、八雲は口を開いた。

「心にもないことを言ってるわけじゃないよ。猛晴くんのことも、ここで働いてる人たちのことも好きだし……」

 でも、と一度言葉を切って牙頭を見つめる。目が合う。見つめ返してくる瞳はいつだって厳しくて、優しい。彼の在り方そのものだ――八雲は心からそう思う。

「猛晴くんがわたしに言いたいのって、そういうことじゃないんだろうね。分かってるんだ、わたしだって……」

 迂遠な会話だ。それも、分かっている。
 互いに分かっている。
 牙頭も、八雲も、これ以上は踏み込めない。目の前にはいつだって目に見えないラインが一本引かれている。
 なにかを恐れるように、そこを踏まないぎりぎりの距離で会話を交わしてきた。

「分かってるならいい」

 牙頭が言った。会話を打ち切ろうとしたというよりは、途方に暮れた口ぶりだった。片手で頭を乱暴に掻いて、「メシの邪魔して悪かったな」と席を立っていく。
 その後姿に、
 ――猛晴くんも一緒に食べようよ。
 そう声をかけることも、できないのだ。
 無言でフォークを握り直す。
 寂しさで食欲が失せるほど、繊細でもない。そう自分に言い聞かせ、サラダを口元へ運び、よく咀嚼して飲み込む。
 いつもと同じ味。いつもと同じ量。いつもと同じ……
 客もそうした不変のものを求めて、店にやってくる。
 変わらないことは悪ではないのだ。
 きっと。たぶん。
 まとまらない思考から気を逸らすように、汚れた口元を紙ナプキンで拭いながら。それでも八雲はなんとなく、過去のあの日に牙頭が見せた苦しそうな顔を思い出していた。







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