「だからきっと、放っておけねえんだよ」

 夜霧の手を引いて歩きながら、響鬼はぽつりと呟いた。夜道は暗く街灯もない。行き来する車も、人の姿もない。どこか適当な場所でタクシーを呼ぶつもりではあったが、今はもう少しだけ彼女と二人で歩きたい気分だった――というより、話がしたかったのかもしれない。

「なにが」

 隣から彼女が訊ねてくる。やや意気消沈した様子で。
(やっぱり、繊細なんだよな。この人)
 密かに笑って、響鬼は答えた。

「アンタのこと。過激なくせに傷付きやすくて、今だってあの婆さんにひでーこと言ったって気にしてる」
「気にしているのは、君との違いだ」

 夜霧が呻く。

「君の言葉はいつだって、人の心を揺さぶる。村の子供にあの老婆、わたしでさえ……ここが、あたたかくなる」

 掌を胸元へ当て、大切なものを逃すまいとするように。

「わたしは傷付けることしかできない」
「八方美人になれないだけだろ」
「そうだといいんだが――きっと、自覚をしないと君にも見放される日が来るのではないかとも思うんだ」

 唇に含めた笑みは、自嘲と呼ぶにも苦すぎた。

「弱気は、らしくねえよ。夜霧さん。俺は……」

 否定はしなかった。未来の約束が容易く失われることは、身をもって知っていた。だから響鬼は慎重に言葉を選んだ。
 彼女を傷付けてしまわないように。

「俺はさ、アンタみたいに過激にはなれねえけど」
「けど?」

 夜霧があのときのように訊き返してくる。
 響鬼は、今度は答えた。

「理解はできる。アンタって、懐に入れたものに甘いんだ。だから守ろうとしてくれてんだろ、俺のことも」
「…………」

 パっと顔を赤らめれば、傲慢な顔も歳相応になる。
 ――そんな顔もできたんだな。
 声には出さずひそかに笑って、響鬼は夜霧の頬に触れた。夜の暗さに慣れれば、その白い顔、目尻の下にうっすらと赤い筋が入っているのが見えた。

「怪我してるぜ、夜霧さん」
「あ、ああ。気付かなかった。夢中で――」

 揉み合ったときに、男の爪が掠めたのだろう。唇で血を拭ってしまえばもう痕も残らない。その程度の傷だが。
 彼女は潔癖なひとだ。
 馬狼以上に、他人に狭量なひとだ。
 従弟とふたり、いや。従弟だけを世界の中心に据えて、女王然と振る舞ってきたひとだ。
 それを思えば響鬼に血を拭わせたのは、これ以上にない特別扱いに違いなかった。

「懐に入れたものは、ほとんどない。照英と……」

 ――君だけだ。今残っているものを思えば、君だけ。
 そう、彼女が囁いてくる。夜の気配を孕んだ夕焼けよりもっと不吉な色の瞳に見つめられて、くらりとする。
 幼い頃に一度だけ、身内での祝いの席で酒とジュースを間違えて飲んだことがあった。その感覚にどこか似ていた。

「……すっげえ殺し文句」
「そうかな。薄気味悪い執着心だとも思うんだが」
「それも、否定はしねえけど」

 彼女の苦笑いにこちらも苦笑を重ね、かぶりを振る。

「でもさ。アンタは、例えば俺がやめてくれって言ったらすぐ自分の気持ちは引っ込めていなくなるような人なんだ。だからそれは執着心って言うより……」

 それを言葉にするのは酷く気恥ずかしくもあったが――

「愛し方を知らないだけなんじゃねえかって」
「愛」

 沈黙。
 ――なんか言ってくれよ、夜霧さん。
 夜霧は目を丸くしている。訝しむでもなく、きょとんと。その顔を見ているうちに居たたまれなくなってしまって、響鬼は両手で顔を押さえた。

「待った。今のナシ。恥ずすぎだ」

 が。

「教えてくれるのか、君が」

 彼女がそう訊ねてきたのはほとんど同時だった。
 互いに顔を見合わせ、無言になる。気まずいのかそうでないのかもよく分からない。ただ緊張はしていた。多分、夜霧も同じだっただろう。「あ、いや」と焦った様子で声を上擦らせていたが、後は続かなかった。

「あー……」

 こちらもそんな意味のない、言葉にもならなかった音を吐き出して、ひとつ息を吸う。冷えた夜の空気が肺に広がる。
 それでいくらかは落ち着いた。

「アンタがそれを望むなら……って言うのはズルいな」

 もう一度、夜霧に触れる。指先を滑らせて、頬から唇へ。偉そうなことを言いながら、鼓動はまだ激しく打っていた。
 そんな動揺は見透かされていたのかもしれない。彼女は唇に触れていた響鬼の指先に舌を押し付けると、挑発的に笑んでみせた。

「人に主導権を譲るとろくなことにはならないぞ」

 彼女の囁く声に。
 脳裏を掠めていったのは、やはりあの青い監獄で出会ったエゴイストたちだった。元チームメイトをはじめとした、好敵手にもなれなかった彼らの顔を順に思い浮かべ――

「分かってるよ。それはもう、いやというほど」

 唇に噛みついた。挑発に乗ってしまったと思わないではなかったが、後悔もなかった。視線が絡んだほんの僅かの空白に――高潔な従姉を踏み荒らされたと知ったら、あの傍若無人な王様はどんな顔をするだろうかと――当てつけめいたことを考えてしまった自分への失望が、少し。
 だから、懺悔の代わりに夜霧に告げた。

「アンタを見ると、アンタの従弟を思い出すんだ」
「よく言われる」

 彼女は微笑んでいる。例の、どこか寂しげな表情で。

「でも、逆はない。照英を見てわたしを思い出す人はいない。だからどうしたという話ではあるが、まあそういうことだ」
「そっか。俺は、それ聞いて安心した。わりィ」

 短い相槌とともに一言告げる。

「謝らないでほしい。わたしは……」

 かぶりを振りつつ、夜霧は歩き出した。その隣に並ぶ。肩が触れるほどの近さに乗じて手を握れば、彼女もそっと指先に力を込めてきた――「響鬼」耳に心地の良い声だ。
 高すぎることもなく低すぎることもない囁きが、響鬼は好きだった。同じ温度で名前を呼ばれる人間が、この世にもうひとりいるという事実に酷く嫉妬してしまうほど。

「嬉しいんだ。ありがとう」

 夜に溶けていく吐息を、じっと眺める。ただの反応だ。きっと誰がそれをしても同じように、体内であたためられた息は白く空気を染めたに違いないが。
 ――どうしてこんなにも美しいと感じるのだろう。
 響鬼は言葉を返すことも忘れ、夜霧をじっと見つめた。

「……行こうか、夜霧さん」

 夢見心地に夜霧の腕を引く。

「ああ」

 頷く声と絡めた掌の温度は、どこまでも優しかった。



END.




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