「井戸の中の蛙は外に出たことがない。だからもっと広い海って場所があることに気付かねえんだよ」

 冷えた空気に訓戒が霧散し、あとには静寂だけが残る。すっかり真面目な顔になってしまった子供たちを見渡して、響鬼は努めて明るい声を出した。

「ところで……お前ら、寺の場所は知らねえか?」
「知ってるよ。この先、ずっと真っ直ぐ行った村はずれ」
「男は入れないけど」
「知ってる。でも、連れを迎えに行くんだ」
「もしかして、天女様?」

 もう話が広がっているらしい。

「ああ。この村の天女役、いなくなっちまったんだろ?」
「うん。駆け落ちだって、じいちゃんが言ってた」
「駆け落ち……?」
「天女に選ばれると、好きな人とケッコンできないから」

 多分、大人たちの会話をそのまま話しているのだろう。そう教えてくれる子供たちは無邪気そのものだが、内容はどうにもきな臭い。
(好きな人と結婚できない?)
 それがなにを意味するのか、考えるには材料が足りない。もう少し夜霧の昔話講義を真面目に聞いておくんだった。そんなふうに物思いに耽っていると――

「迎えに行ったら、お寺に返しちゃだめだよ」

 子供のひとりが囁く声で告げてきた。

「おい……」

 他の子供は躊躇ったようだ。一瞬、彼を咎めかけたが。

「絶対にだめだよ」

 意を決したように最初のひとりの言葉を復唱し、途端に踵を返した。ボールを拾い上げもせず、そのまま駆け出す。

「じゃあな、兄ちゃん!」
「お、おい!」

 呆然と子供たちを見送って――

「響鬼」

 背後から、声が聞こえた。振り返る。

「夜霧さん……?」

 そこには寺にいるはずの彼女が佇んでいる。

「え、いや、なんで……今迎えに行こうと……」
「だったら待っていればよかったかな」

 気難しげな顔が響鬼を見ると綻んだ。彼女の狡いところだ。そんなふうに分かりやすく特別扱いをされて、ほだされない人間なんていない。

「あまりに無礼なものだから、早々に切り上げて逃げてきた。勿論、舞は完璧に習得したとも。元より、覚えやすさを優先したつまらないものだ。伝統芸能とはほど遠い」

 微笑みながら、随分な言いざまである。

「……いつもの調子で安心したよ、夜霧さん」

 ――心配したのが馬鹿らしいくらい、彼女はいつも通りだ。
 安堵しつつも、どこか肩透かしを食った気分ではあった。

「君の方は子供たちにサッカーを教えてやっていたのか」
「教えたって言っても、リフティングのやり方くらいだぜ」

 大袈裟だなとかぶりと振ると、夜霧はふっと真顔で言った。

「君は罪な男だな。この村に革命の種を蒔いた」
「どういう意味だよ」
「未知の自覚という話さ。あの子たちは君を通じて未知の世界があることを知った。好奇心と想像力を刺激されて、今頃興奮しているはずだ。そしてこうも思うようになる」

 そこで一度空白を挟み、いっそう声をひそめて囁いた。

「なぜ、この村の大人はこんなにも暗いのだろうと」
「暗い?」

 響鬼はきょとんと訊き返した。夜霧の言葉は出し抜けで、抽象的だった。彼女には、そういうところがある。
 赤く燃える瞳で他人のなにを眺めているのか――
 答えは、すぐに分かった。

「狭い世界で古い秩序を守り続ける者の暗さだ」

 ――わたしにも、覚えはあるが。
 そう付け加える彼女の声は、苦いものを含んでいた。
 空を雲が流れていく。
 風に前髪をさらわれて、夜霧は髪を掻き上げながら一度瞬きをした。遠くから祭囃子が聞こえてくる。と、

「天女様、こちらにいらしたのですか」

 頭を綺麗に剃り上げた女が、慌ただしく駆けてきた。
 尼寺の者だろうか。

「困ります。櫓へご案内する途中で、逃げ出されては……」

 そういうことだったらしい。
 非難めいた口調で唇を尖らせる女は、響鬼の姿に気付くと顔を強張らせた。その視線から庇うように、夜霧が割って入ってくる――答える口調は、一転して厳しい。

「必要以上の指示は聞かないと最初に言ったはずだが?」
「しかし……」
「この村は、たかだか観光客に随分な要求をするのだな」

 吐き捨て、彼女は小声で付け足した。
 ――さすが、天女を殺した村だ。
 それが言いすぎなのかどうかも、響鬼には分からない。
 分かるのは、望まれなくても緩衝材になった方がいいということだけだ。夜霧の背後で、響鬼は声を上げた。

「夜霧さん、俺も一緒に行く。だから……」

 だからなんだと言うのだろう。落ち着いてくれと続けるのは、彼女にあまりに悪い気がした。

「分かっているよ」

 夜霧がたった一言、答える。
(多分、伝わらなかったんだろうな)
 彼女が体の横で手のひらを握り込むのを見つめながら、響鬼は唇を噛んだ。
(なんで俺は言葉が足りねえんだ。なんでこの人は――)
 ――悲観的に補完してしまうんだ。
 理由は明白だった。お互い過去の挫折に怯えすぎている。言葉にすればそれだけのことだ。絶対に埋められない溝、というわけでもない。だが状況が最悪だった。
 辺境の閉鎖的な村。
 村人たちは古い慣習に縛られて、夜霧になにかの役割を求めようとしている。
(さすがに、昔話の天女と同じように殺して埋めようってそんなホラー映画みたいな展開には……)
 ならないとは思いたいが。
 尼僧を置いて歩き出した夜霧の隣に追いついて、並ぶ。それに気付くと夜霧は歩調を緩めた――そのことに響鬼は少し安堵した。大丈夫だ。まだ、大丈夫。
 握りしめられた彼女の、手の甲に触れる。
 そんなことでなにもかもが伝わるとは、勿論思わない。それでもなにか感じてくれることを祈るしかない。




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