◇◇◇

「そういえば……婆さんが言ってた、村人の中から選んだ天女役が行方不明になったって話。なんなんすか」

 男の住まいは単身者向けの小さな平屋だった。さすがに茅葺屋根の小屋とは言わないまでも、悪い意味で趣のある佇まいである。もっとも、村の建物は公会堂や寺を除けばどれも似たり寄ったりではあるが。
 男はくたびれた食器棚の中から白いマグカップをひとつ取り出すと、インスタントコーヒーを淹れた。瓶から粉を雑にそそいだせいで、酷く濃い――それを茶請け代わりのチョコレートでどうにか流し込みながら、響鬼は訊ねた。
 男と二人、他に話題もない。

「ああ? ああ……」

 彼は怪訝な顔をしたが、すぐに思い出したようだ。

「行方不明なんて大袈裟な言い方しやがって、あの婆さん」
「ちげーんすか?」
「大方ただの家出だろうよ。年頃の娘にはよくあることさ。都会に憧れて後先考えずに出奔。で、都会で孤独と挫折を味わって、気付くわけだ。故郷が一番良かったって」

 ――まるで経験者は語る、だ。
 夜霧ならそれくらいのことは言ったかもしれない。男の語り口にはどこか自嘲と実感が込められていたが、響鬼はただ一言「なるほど」と無難な相槌を打つに留めた。

「ま、結果だけを見れば幸いだったのかもしれんがね」

 男が続ける。

「幸い?」
「すわ天女役不在か、経験のある寺の婆さんたちでお茶を濁すか。村の中から新しい天女役を選ぶには、話し合いの時間が足りない……そんな調子で揉めてたところへ本物の天女様がやってきた」

 本物の天女様。
 その言葉の持つ大仰さに、響鬼は怪訝な顔をした。

「あの人は一般人だ」
「分かってねえなあ、兄ちゃんは」
「なにが――……」

 訊き返しても、男はにやにや笑うばかりだ。なんとなく気味の悪さと不吉さを覚えて、響鬼は立ち上がった。

「俺、行きます」
「寺には入れないぞ」
「近くで待つんでお構いなく」

 そう跳ね付けた響鬼の背に、男の声が纏わりついてくる。

「……お前、ただのガイド役じゃないだろう?」
「だったら、なんすか」

 問いかけの意味も分からないまま、響鬼は問いで返した。
 沈黙――
 その後に聞こえてきた小さな笑い声には、どんな意味が込められていたのか。分からない。ただ、悪意は感じた。それも一瞬でやみ、嫌な静けさだけが残る。

「別に。兄ちゃんの武運を祈るよ」
「いや、いらねえっすよ」

 奇妙な男の奇妙な祈りを突き返したのは、夜霧の影響だ。以前の自分だったら、不吉な予感を感じつつも飲み込んでいたに違いないが。
(俺も、わけも分からないまま受け取るのはやめようって)
 決めたのだ。
 胸の内でひとりごちた。瞬間、足の間を見えないボールがすり抜けていったような錯覚があった。胸が痛い。
 もしもの話をすればきりがないことは分かっていたが、それでも後悔とともに詮のない妄想が胸を過ることもある。あの青い監獄で、自分の進むべき道を人に委ねずにいたら。
(どうなってたんだろうな、今頃)
 自分たちのチームでひとり先へ進んだ刹那の仲間の顔を思い出す。すべてのストライカーに等しく与えられた機会。その機会をふいにしたのは他ならぬ自分の怠惰さだ。
 今どき見ないような古い引き戸を開け、外に出る。
 室内も空調が利いていたわけではなかったが、それでも気温差に思わず身震いした。春先だが、妙に寒い日だった。

「そういや、寺がどこにあるのか訊かなかったな」

 歩き出してから気付いたが、戻るのは気が引ける。

「あのおっさん、なんか怪しいし。他を探すか……」

 とはいえ誰を頼ったものか。この村の人間とは短時間に二人――老女と男、少し会話を交わした程度だがどちらも好きにはなれなかった。
(……まともな村人がいればいいんだけどな)
 そんなことを考えながらしばらく行くと、小さな公園が見えてきた。
 五、六人の子供たちが遊んでいる。石山を磨いて作った滑り台と、遠目にも分かるほど錆びたブランコは無視し、ゴムボールを蹴って。
 サッカーと呼べる代物ではないが、楽しそうではあった。その様子をなんとはなしに眺めていると、中でもひときわ背の低いひとりが「あっ」と声を上げた。
 どうやら蹴り損なったようだ。ボールは歪な弧を描くと、響鬼の足元に転がってきた。反射的に蹴り返す――
 軌道以外はほとんど逆再生で戻ってきたボールを見て、子供たちはぽかんとしている。なにが起きたのか、すぐに理解できなかったらしい。数秒の空白ののち、

「兄ちゃん、スゲーな!」

 彼らの顔がぱっと輝いた。

「どうやったらそんなふうにできる?」
「学校の先生でも、こんなんできないよ」

 あっという間に囲まれてしまった。
 無垢で幼い尊敬のまなざしは、かえって居心地が悪い。

「あー、いや、練習」
「どんな?」
「リフティングとか、壁当てとか――分かるか?」
「分かんない」

 首を振る子供たちに少し笑って、ボールを宙に放った。足の爪先でボールの中心を捉え、軽く蹴り上げる。
 右、左、右、左――ボールコントロールの精度を上げるための基礎練習だが、子供たちは食い入るように見つめてくる。その姿に、響鬼は幼い頃の自分を思い出した。

「ボールをよく見て、姿勢は崩すなよ」

 それは幼い自分への助言だったのかもしれない。

「まずは百回。続くようになったら五百回」
「そんなに?」
「それができる頃には、他のやつよりずっと上手くなってる。自分が球を受けやすい距離感とか掴めるようになるし……って言ってもまだ分かんねえか」

 こんなもんかと落ちてきたボールを足の甲で受け止めて、そのままそっと地面へ置く。「俺、やってみたい」「俺も」
 ボールを取り合う子供たちの姿を引き気味に眺めながら、響鬼は息を吐いた。握りしめていた手をゆっくり開く。
 指先はわずかに震えている。

「兄ちゃん、サッカー選手なの?」

 取り合いの輪から真っ先に弾かれたらしい、小柄な子供が覗き込んできた。きらきらと輝く瞳とかち合う。
 その眩しさに当てられて、心はどんよりと重くなった。

「いや……」

 知る人の誰もいない田舎の辺境だ。嘘を吐いたところでそれを見破るすべもない。それでも響鬼は正直に否定した。かつての夢を否定した。
 人知れず喪失感に胸を焼かれたとしても、感情を抑えることには慣れている。
 子供たちは驚いている。思いもよらないことを聞いた、という顔だった。驚きと困惑とがない交ぜになっていた。

「兄ちゃん、この村の誰より上手いのに?」
「俺もさ、この村どころか熊本で一番だって思ってたけど」

 ――熊本の鬼武者。熊本の点取り屋。
 大仰なふたつ名を思い出して、唇を苦く歪める。
 果たして上手く笑えただろうか。

「井の中の蛙にはなるなよ」

 囁く声は思いのほか大きく、その場に響いた。




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