六月の愛は空色

 空は青く澄んでいた。彼女の瞳のごとくに。
 降り注ぐ白い花弁。教会の鐘が鳴る――馬鹿げた夢だ。
 夢の中でさえ分かっていた。これは夢だと理解していた。けれど、それでも。誓いの十字架の取り付けられた、白い建物を背に微笑む花嫁はハッとするほど美しかったのだ。
「ユナ・ナンシィ・オーエン」
 その名を呼ぶおのれの声の、甘いこと。
「拙者は」
 ――お前に惚れておるのだ。
 囁きに口付けで答えると、女が言った。
「知ってたよ」

 ◇◇◇

 ――なにが知ってたよ、だ。
 酷い目覚めだった。どうしようもなく寝覚めが悪かった。如月影二は頭を振って眠気を追い払うと、そっと息を吐いた。
 ユナ・ナンシィ・オーエンがサウスタウンへ発って翌日。喫緊の用件とだけ彼女の上司は言っていたが、いまだ連絡はない――ろくなことになっておらんのだろうと思いつつ。
 恋人との共寝に慣れた。
 ただそれだけだ。けれど、それだけのことで妙に居心地が悪かった。主人のいない部屋。買い替えたベッド。ユナがいつも寝ている左側には、彼女がいない今も不自然な空白がある。我ながら末期だなと額に手を当て、影二は何度目かの溜息を吐いた。そうしたところで「幸せが逃げるよ」と、ありきたりなことを言う者もいない。つまりは。
(寂しいのか、よもや)
 馬鹿げている。
 自問。自答。それもまあ大概に馬鹿げていたが。
 やけに重い掛け布団を床に落とし、のそりと起き上がる。途端にぐうと腹が鳴った。現実はそんなものだ。日頃からやかましいくらい愛を囁いてくる恋人の不在にらしからぬなにかを感じたとて、腹は減る。腹が減れば、冷蔵庫を勝手に開けて朝食を食べることもする。
 冷蔵庫は、独り暮らしの女が備えるにしてはやや大きい。これもユナがつい先日に――どうしてか――買い替えた。ぼんやりとそんなことを思い出しながら、扉を開ける。
 中には総菜の詰められた保存容器と、メモが一枚。
 ――早めに帰るから待っててね、エージ!
(ああ――……)
 まだ寝惚けておるな、拙者は。
 苦く呟く。いや、浮かれているのだ。酷く浮かれている。
 頭の中で鐘が鳴った。澄み渡った空の下、響く祝福の音――の、代わりにリビングのソファに放り投げていた携帯電話が着信を知らせていた。相手を確認するまでもない。
「ユナ。ユナ・ナンシィ・オーエン」
 思わず呼んだ。瞬間に思い出してしまった。
 ――ユナ・ナンシィ・オーエン。
 呼ぶ声の甘いこと。
 電話の向こうから、息を呑む気配が伝わってくる。
「あ――えっと、どしたの、影二」
 腹が立つほどに、いつものユナだった。
 そんな日常の延長が、不思議といっそう愛おしかった。
「拙者は、どうやら、お前がおらねば駄目らしい」
「は」
「……ふ。やはりお前は、知ってたよなどとは言わんな」
 その言葉の意味も分からなかったのだろう。困惑しているユナに、こちらの話だと言い直した。彼女は腑に落ちない様子だったが。
「一週間で帰れそうだよって伝えるつもりだったんだけど……そんなこと言われたら、すぐに会いたくなっちゃうよ」
「そうか。なれば」
 拙者が会いにゆこう。
 告げるだけ告げ、通話を切る。
「ちょ――」
 ただの一言にすらならなかった音だけを鼓膜に残して、室内にはまたひとりきりの静寂が戻った。言葉どおりにすぐ発とうか迷って、テーブルの上に出しっぱなしにした保存容器のことを思い出した。
 綺麗に巻かれた鮮やかな黄色の卵焼き。「ビリーさまは甘いのが好きなんだけどね」と言ったユナが、けれど出汁巻きにばかりすることを、影二は知っている――拙者の好みだ。一切れ、口の中に放り込んだ。
 甘辛く煮た、じゃこの入った五目豆。こかぶと人参の浅漬けに、鳥団子の照り焼き。塩を少し加えただけの握り飯とともに、丁寧に平らげる。味噌汁を作ることさえ四苦八苦していた彼女が、こうして料理を作っていくようになったのは。
(いつからか)
 考える。部屋を見渡す。以前なら思い立ったその日にすぐ引き払ってしまえそうなほどなにもなかった、そんな部屋の中にいつの間にか物が増えていた。ダブルサイズのベッドに、大きめの冷蔵庫、衣装ケース、二人分の食器を収めるための食器棚――ああ。これではまるで。まるで。
 気づいてしまえば簡単なものだ。
 腹が立つほどあっさりと腑に落ちてしまった。
 もう寝惚けているなどとは言えないほど、明白だった。
 部屋のそこかしこに漂う彼女の残り香。日常の残滓に、我知らず唇を微笑ませながら。影二はもう一度だけ息を吐いた。
「里に……」
 便りを飛ばすか。近いうちに女をひとり、連れていくと。
 独りごちつつ、手を合わせる。そうして、テーブルの端に取り残されたままだったメモに向かって告げた。
「待てない性分で、すまんな」
 それこそ、ユナは「知ってたよ」と軽やかに笑うのだろう。いつものような悔しさはなく、心はどこか穏やかだった。

 ◇◇◇

「で――マジで来たってのは、また……」
 相当にキてんなと、元チームメイトが顔を顰めている。
 サウスタウン。ギースタワーである――勝手を知らない場所、というわけでもない。ビリーに招かれ足を運んだこともあれば、今日のように勝手に入り込んだことも一度や二度ではない。とはいえ目当ての恋人は任務の事後処理に追われ、まだ帰っていないという話ではあった。
「……否定はすまい」
 いつもの短気の代わりに、影二は苦笑いを浮かべた。
「来る手間と時間を考えりゃ、日本で待ったって同じだろ。頭に花咲かせて、てめえらしくもねえ」
「とはいうが」
 会話の間にも書類に目を通しているビリーの、その眉間あたりを眺める。いつでもなにかに怒ったように、そこへ深く刻まれた皺は彼の敬愛するギース・ハワードと妹の前以外で消えることはほとんどない――その気持ちは、実のところ分からないでもないのだ。多少なり似通った境遇を通っていればこそ。
 ――告げれば、またこやつは怒るのだろうな。
 そう予感しつつ。それでも影二は告げた。気遣いもなく。
「挨拶は、必要であろう。貴様のような男が相手であれ」
「は」
 間抜けな声を上げ、はじめてこちらを見た――その顔に。
「ユナを、如月の里へ連れてゆく」
 それだけで意味は伝わったはずだ。
 案の定、ビリーは一度目を瞑り、眉間の皺を深めると、肺から息を絞り出した。
「そうか」
 憤怒と諦めが混じった呟きが聞こえてくる。
「大事にしろよ、なんて言わねえからな。俺は。てめえがしくじりゃ、またサウスタウンに帰ってくるだろ。あいつ」
「そうならんよう努めねばな」
「らしくねえ言い方しやがって……でも、まあ」
 ――悪かねえ報なんだろうな。
 まったくの他人事で呟いて、視線をふたたび書類の山へ戻していく。それきりこちらを見ることもない。
 影二ももう、ビリーの方は見なかった。
 ギース・タワーの窓の外。眼下に目を向ければ、見慣れた鈍い銀色が通りの向こうから駆けてくる。余程慌てているのか、デリバリーのバイクの邪魔をして、ドライバーを怒らせているのが見えた――やれ、やれ。
「出迎えてやるか」
 一言、誰に向けるでもなく呟いて踵を返す。と、
「おい、如月」
 不意に、ビリーが声をかけてきた。
「写真の一枚くらいは送れよ。てめえの間抜け面が見たい」
 ――大概、素直でないな。こやつも。
 思わず上げそうになった笑い声を喉の奥に戻して、手を上げる仕草だけで答える。
「二枚でも、三枚でも」
「一枚でいい」
 不機嫌な声に――今度こそ笑いながら外へ出る。梅雨のないサウスタウンの空は、どこまでも晴れわたっていた。






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