怪物領域にて

 彼女に背を向けて寝た。
 そのことだけは、どうしようもなく覚えている。

 口論というのも馬鹿馬鹿しい。ユナが上司からひとつの任務を与えられた。それだけのことだ。影二にとっては、元チームメイトにあたるビリー・カーン。サウスタウンを牛耳るハワード・コネクションも深刻な人材不足とみえる――というよりは、巨大組織の宿命か。組織が膨らむほど信用に足る部下が少なくなるというのは。
 ギース・ハワードにとってのビリーやリッパー、ホッパーのように。ビリーにとってはユナ・ナンシィ・オーエンこそが二心を疑うことなく使える手駒に違いなかった。
 だからこそかえって危険な任にばかり就かせる羽目になる、というのは本末転倒でしかないのだが。背中越しに彼女の気配を探りながら、如月影二はひとりごちる。
 ――まったく、冗談ではない。
 ビリーにしてみればひとえにギース様のため、ということになるのだろう。部下に対して情が厚い一方で、優先順位は決して違えない男である。ユナにしても似たようなものだ。ビリーの恩義に報いるためなら少なからずの無茶もする。
 そうしてやきもきさせられるたび、影二は言わずにいられなかった。そろそろ潮時ではないか。命あっての物種だ。
 我ながらなんともらしくない台詞だった。いつでも死ぬ覚悟はできていると養父に啖呵を切った男の台詞とは思えなかった。それを聞くとユナは決まって唇を曖昧に歪めた。
 自嘲とも喜びとも付かない、奇妙な笑みで。
「でもさ、辞めてドーすんの。転職先があるわけでもなし」
 その問いに「拙者がもらってやる」と応じてやれた試しはない。舌の先に生まれては、飲み込んできた言葉だった。
 影二に親はない。
 養父と呼ぶ人ならいるが、生まれてすぐ如月の里近くに捨てられた。血の繋がった両親がどんな人物であったのかも分からない。かつてはそれが許せなかった。如月流の後継者として、ありとあらゆる才に恵まれた影二だ――子を亡くしたばかりの如月流総帥に拾われた運の強さも含めて。
 それでいて誰もが当然のものとして持つ、家族の情だけを知らなかった。寂しかったというよりは、矜持の問題だ。
 この密かな胸の空白を――
 他に誰が知るだろう。果たしてユナは知っていた。
 サウスタウンの路地に放り出された彼女はいっそう悲惨だった。名を持たず与えられもせず、ハワード・コネクションに居つくまでは都会に住む鼠さながらに生きてきた。
 同じ空白を共有する者同士だ。出会うべくして出会い、なるべくして家族となるのだと、影二はそう思っている。
 とはいえ、常に懸念もあるのだ。
 ――我らは、家族を知らぬ。
 空白の中には互いの理想だけが詰まっている。その形が正しいものかどうか判断の仕様がない。怪物領域と同じだ。未知の空白に足を踏み入れるとき、そこには必ず怪物がいる。
(まあ、現実逃避か)
 影二はそれを認め、隣に視線をやった。
 そこにユナの姿はない。代わりに小さな膨らみがひとつ。
「……ユナ?」
 疑わしげに声をかける。
 それはもぞりと動いて掛け布団の隙間から勢いよく頭を出した。目が合う。癖の強い色褪せた金髪は、ともかく。
 よく晴れた空と同じ色の瞳は、紛れもなくユナのものだ。
「よもや……」
 よもや、鬼子がおったとは。
 それはまさしくユナの消えた空白から出現した、小さな怪物だった。喉が引き攣る。間男はどいつだ。その金髪。まさかビリー・カーンではあるまいな。なれば奴を……
 元チームメイトを問い質す――あるいは闇に葬り去ってすべてなかったことにする算段を立てていると、その怪物もとい幼子が口を開いた。
「え、えーじ」
 血を髣髴とさせるというよりは、はっきりとユナの声で。
「なんで、おっきいの」
「は」
「えーじがおっきい」
 それですべてを心得た。
 奇妙な事件に巻き込まれるのは、これがはじめてというわけでもない――不本意ではあるが。不義がなかったことに安堵して、影二はユナの方へ手鏡を一枚投げてやった。
 彼女は訝しげにそれを受け止め、
「なに……」
 硬直。
「髪色が違ったというのは初耳だ」
「いや、すぐにいろぬけちゃったからもーこはんみたいなもんだし……っていうかそうじゃなくて! ナニコレ?」
「大方、先の任務で妙な薬か呪いでも浴びたのだろう」
「ゆうべもいったけど、こんかいはホントにただのきぎょうすぱいやっただけだからね! そんなまいかいまいかい、あぶないめには……」
 最後まで言えなかったのは、心当たりのひとつでも思い出したからか。じとりと睨むと、ユナは乾いた声で笑った。
「おわったことはさておき」
「さて置けるような話でもなかろうが」
 昨晩の繰り返しになりそうな気配を察し、こちらも口を閉じる。なんとなく喧嘩の気まずさまで思い出して、互いに無言で見つめ合った。
 折れたのは影二の方だ。
 見てくれだけとはいえ幼子になったユナを相手に、意地を張るのも馬鹿らしくなった――というのが本音ではある。
 その幼い体を抱き上げる。「見たままの子供じゃないよ」と笑った彼女は、けれどどこか不安そうに鼻を鳴らした。
「もどらなかったら、どうしよ」
 どこか途方に暮れた声で、一言。
「拙者が育ててやる」
 すぐさま答える。
「そっか。うれしいけど、でもね」
 ――わたし、むすめよりもエージのおくさんになりたい。
 影二の首筋に鼻を摺り寄せる。
「ユナ――」
 呆気に取られて、影二はしばし胸のうちに言葉を探した。そうだな。拙者とて。間に合わせのつもりはなかったが、ひとまずそれだけを告げる。
 それで安堵したというわけでもないだろうが、ユナはうつらうつらとふたたび夢の中へ戻っていった。
 穏やかな寝息が聞こえてきた頃、ようやく。
「相も変わらず言い逃げか。いや、拙者が後手ばかりなのか」
 情けない心地で、その耳に吹き込む。
 せめて夢の中の彼女に届くといいと思いながら。
「拙者とて、父と呼ばれるより良人がよい」
 ベッドに放り投げられた手鏡を、なんとはなしに見る。そこに映った男の、耳まで赤く染めて無様なこと。
 だが不思議と苛立ちはしなかった。
 そのあまりにも小さな背を片手で軽く叩いてやりながら、そっと目を瞑る。ああ。いつか父になるならば、子守唄のひとつでも覚えねば恰好が付かぬか。今度は声には出さず呟いて、不安になるほど柔らかな頬に口付けを落とした。






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