お前と――するのなら
月のない夜がいい

 昼の名残はすでになく、夜の闇があたりを満たしている。
 月のない夜だ。星明りだけが漆黒に濡れたアスファルトを気持ちばかり照らしている。狩りに向いた夜だった。
 あるいは、殺しに向いた夜とも――
 静寂に響くのは走り続ける自分の足音だった。短く浅い呼吸音だった。それ以外にはなかった。けれどその事実でいっそう焦燥に駆られて、彼女は地面を蹴りつける足に力を込めた。深く暗い背後の夜を、引き離すように。

 どちらがそれを言い出したのか。
 ユナ・ナンシィ・オーエンは考える。酸素の足りない頭で。わずかに酔いの残った頭で。今更そこへリソースを割くのは馬鹿げていると理解しつつ、それでも思いを巡らせずにはいられないのだ。人はそれを現実逃避という。
 ――ユナ。ユナ・ナンシィ・オーエン。
 低すぎもせず高すぎもしない、耳に心地のよい声で彼が。如月影二が切り出してきた――その瞬間を思い出した。
「ひとつ、勝負をするとしよう」
「勝負?」
 思えば珍しく二人で酒を嗜んで、影二の機嫌もよかった。
「拙者が追い、お前が逃げる。小童でもできる鬼遊びだ」
「影二が鬼やるの?」
「ああ。たまにはよかろう」
 と揶揄を含んでみせたのは、実に彼らしい話だ。
「拙者が、お前を、追う」
 そう耳元で駄目押しをされればユナとしては二つ返事で応じるしかない。惚れた弱みだ。そのあとに、
「しかし、賭けるものがなければ盛り上がりに欠けるか。では、負けた方が秘め事をひとつ打ち明けることとしよう」
 そんなふうに続くとは思いもよらなかった。
 もしや影二ははじめからそれを狙っていたのではないかと今となっては思わずにもいられないのだが。
(完全に詐欺師の手口だよね。かなりタチの悪い)
 口の中で毒づきつつ、速度は落とさない。少しでも気を抜けば次の瞬間暗闇から伸びてきた手に絡み取られることは分かっていた。如月影二は、そういう男だ。
「――それ、走れ。走らねば獲るぞ」
 計ったようなタイミングで聞こえてきた声に、叫び返す。
「性格悪いよ、影二!」
「その性格の悪い男に惚れた女が、なにを今更」
「そうだけどさ! せめてもうちょっと手心を加えてよ」
「十二分に加えているつもりだが」
「信じらんない!」
「と言うのであれば、そろそろ遊びは止めるとするか」
 そんな声に混じって、静寂に微かな金属音が響いた。
 頼りない星明りに目を凝らせば足元できらりと光るものが見える。「え、ちょっと待ってまきびしは狡くない!?」
 返事はなかった。ただ鼻を鳴らしたような笑い声だけが聞こえた、気がした。慌てて地面を蹴りつけ、前方へ跳ぶ。受け身を取る形で転がり、勢いはそのままに体を起こした。どこにも菱が刺さっていないことを痛覚だけで探り、再び駆け出す。酔いはすっかり醒めている。
「ごめん! 信じた!」
「遅いわ、戯けが」
 即答。
 愛がないよと抗議する暇もなく背後でトンと音がした。頭上に影が落ちる。軽やかに地面を蹴りつけた忍びの体が宙を舞い、ユナの目の前にすとんと落ちてくる。逆さまの影二は目が合うと、覆面の下の唇で美しく弧を描いてみせた――遊びは仕舞いだ。拙者に二言はない。
 両腕が伸びてくるのを止められない。避けられもしない。傍目には酷く従順に見えただろう。実際、身じろぎすらできなかった。両腕に絡めとられるままに捕まって、ユナは深く息を吐いた。心臓は忙しなく脈打っている。とはいえ、息が切れているせいなのか、予想外に強く抱きしめられているせいなのか判断がつかない――影二の腕の中で息継ぎをしながら、ユナは訊ねた。
「あの、あのさ、えいじ、これなんなの、けっきょく」
「鬼遊びだと言ったはずだが」
「それは、うん、そうなんだけど」
 最初から勝負にならないって分かりきった話だったよね、と――口には出さず、代わりにちらりと影二を見上げた。
「秘密、ひとつ打ち明けるんだっけ」
「そんなことも言ったか」
 心底どうでもよさそうな、その返事でますます分からなくなる。困惑しつつユナは口を開いた。もしも彼に捕まったら、それを打ち明けようと決めていた。
「あのね、影二」
 追われていたときよりも緊張するなと思いながら。
「わたしでもね、たまには不安になることがあるんだよ。本当に影二に相応しいのかだとか、このまま一緒にいてもいいのかだとか――まあ、ありきたりなんだけど」
 影二は黙って聞いている。でなければ機嫌を損ねているのかもしれないなと思いながら、ユナはそっと続けた。
「影二はくだらないって言ってくれるんだろうね。多分」
「ああ、くだらんな」
 ――建前がなければお前を追えぬ、拙者と同じくらいには。
 顔も見えない闇の中。月がなくてよかったと耳元で囁く彼の口元に、ユナはそっと唇を寄せて笑った。







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