暗夜に灯籠を灯すが如く



 ユナ・ナンシィ・オーエンがいなくなった。
 事実として見るならば、ただそれだけのことだった。もとより反社会的勢力の構成員が死ぬのは珍しいことではない。組織にとって彼女らは消耗品とそう変わりはしない――それこそ、在庫リストに構成員×一、構成員×二とでも記されていそうな程度には。
 まして戸籍を持たないユナだ。そういう意味では彼女ほど使い捨てることに向いている人間もいないに違いなかった。ギース・ハワードはもちろん彼女の安否など気に留めるはずがなかったし、直属の上司でさえ表面上は無関心を装った。内心は、どうあれ。
 ただ、如月影二だけが――
 影二だけが、ユナを探していた。
 帰還予定日を五日ほど過ぎたあたりでビリーが送ってきた彼女の捜索依頼よりも、早く。今となっては認めざるをえない、あのどうしようもない――恋人の――足取りを、歯軋りしながら追い続けていたのだった。そうして、十日目。
(ようやく姿を見せたと思えば……!)
 いったいどういうことなのか。
 月明かりに拳を握る。忍びの目は夜の闇でさえ敵の姿を見失うことはない。それが一寸先すら見えない漆黒の世界であっても、五感のすべてで相手を捉える――そういうふうに、仕込まれている。程度は違えど彼女とて似たようなものだろう。まして明るい夜ともなれば狙撃など造作もない。狩りに慣れた肉食獣のごとく、向こう側から狙っている。
 影二の心臓を。

 任務の仔細は、ビリーから聞いていた。難度の高い潜入調査。ユナに適任だったというよりは、他に適任者がいなかったという方が正しかったようだ。彼女に回ってくる任務の八割は、そういった類のものだった。下っ端の手には余るが、幹部が出張ると体裁が悪い――手間のかかる雑用。あるいは他人の尻ぬぐい。
 そのあたりは腐っても、ビリー直属の部下なのだ。本人が自己申告するほど弱者というわけでもない。今回の任務にしても必要な情報のほとんどはビリーの許に送られて、あとはユナ自身が帰還すればそれで終わりだったという。潜入先は小さな製薬会社だ。
(まさか捕まって薬漬けになどされてはおるまいな)
 当然のこと、真っ先に潜入は試みた。
 殺しの方が性に合うといえども影二自身、如月流の忍び――それも、次期総帥である。二日三日もあれば、建物の隅々まで探ることはたやすい。
 が、結果は白だ。
 ユナはどこにもいなかった。もしやすでに殺され、どこぞに捨てられでもしたかと――重要参考人になりそうな人物のひとりを捕まえて、丁寧に訊ねることもした。断った指先から剥きだしになった骨を念入りにやすりで削ってやりながら「女はどこだ」と。
 とはいえ、これは失敗だった。同じ悪党でも、相手は拳ではなく頭を武器に闘う研究者だ。あっという間に気を失って、口の利ける状態に戻すところからやり直さねばならなかった。
 そうして聞き出せたのが――女は帰した――だというのだから、腑に落ちない。
「十日だ。十日で、もっとも頼みにする人間の許へ帰る。そういうふうに言い含めた」
「言い含めた? どういう意味だ」
「会えば分かる」
 それで終わりだ。
 絶命した研究者の亡骸を始末し、その場をあとにするしかなかった。もう一人か二人を捕まえて同じことを繰り返してもよかったが、なんとなく行きつくところは変わらないだろうと感じてもいた。派手に暴れるほど、後にビリーが介入しづらくなることも。
 苛立ちを抱えたままさらに調べて分かったのは――驚くべきことに――ユナが本当に、生きたまま解放されたらしいということだった。いっそう狐につままれた心地だった。
(十日……)
 その十日になんの意味があるのか。
 分からないまま時間は流れた。分かるのは、自由の代わりになんらかの制約を与えられたユナがどこかに潜伏していることだけだった。助けを求めることも叶わず、十日が過ぎ去るのを待ちながら――考えるほどに腹立たしかった。彼女の無力さも、おのれの無力さも。

 感じたのは静かな殺意だ。
 殺しには向かない夜だった。人を殺すなら雨の夜がいい。そう言ったのもユナだった。覚えている。冷たい雨の降る夜は暗く、通行人も少ない。かすかな物音は雨音がすべて掻き消してくれるし、洗い流されてしまえば痕跡も残らない。それを考えれば、殺しに向かない夜だった。折しも満月。空には月が煌々と輝いている。明るすぎる夜だ。
 闇の下で柔らかな月明かりを反射して、ユナの髪は銀色に輝いていた。
「ユナ。ユナ・ナンシィ・オーエン」
 彼女の名を呼ぶ。
 いつもならそれだけで硬直する彼女が、ぴくりともしない。動きも止まらない。
 胸の前で構えた拳銃の引鉄を引く手も、止まらなかった。
 打ち込まれた弾丸を懐刀で弾き返す。跳弾は近くの街灯に命中した。ぱりん。乾いた音とともに水銀灯が割れる。それでも完璧な闇には至らないが。
 そんな刹那のやり取りに、ひとつ理解したことはあった。
「無意識化での癖すら発現せんとは、暗示の類か」
 自らの意思で口を閉ざしているというよりは、プログラミングされた機械の挙動だ。
 そうと分かってしまえば、十日という制約の意味も知れた。催眠か、でなければそれこそビリーが調査させていた新薬なのか。いずれにせよ効果が表れてから体に馴染みきるまでに十日かかる、という意味だったのだろう。
 冷静に判断して、影二はそっと囁いた。
「まったく、仕様のない女だ」
 怒りもなく、悲しみもなく――
「だが、まあ、絡繰りが分かれば悪くはない」
「…………」
 ユナからの返事もなかった。
 その一点においてのみ、惜しいと思う。戯れに愛ばかりを吐き出すユナの唇から美しい殺意を聴くことができたのなら、自分でもわけが分からなくなるほど昂ったに違いなかったのだ。感情なく見つめてくる氷海のごとき瞳に、全身の血が沸騰してやまないのと同様に。
 いつも与えられるばかりだった。
 それこそ無償の愛だった――ただより高いものはない。実際に酷く高くついてしまった。愛されることに慣らされて、今更手放せもしない。
 その、彼女を。ユナを。
「ようやく拙者の番だな」
 唇を舐める。加減はしない。力でねじ伏せ、力で奪う。
「いや。奪うまでもなく拙者のものだ。お前は」
 横暴に宣言し、音もなく踏み込んだ。同時に腕を左右へ払い、闇を裂く真空の刃を生む。斬鉄波。静寂に鋭く響く声とともに斬撃はユナを襲ったが、彼女はスライディングの要領でそれを避けると顔色ひとつ変えずにナイフを投げてきた。細い銀が五つ。月明かりに閃く。投擲用のナイフは重心が安定して投げやすいが、ゆえに軌道も読みやすい。






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