ビリー・カーンのひとりごと
あるいは或る女構成員の独白



 如月影二は極めて優秀な職業的暗殺者である。忍びの者としては自己顕示欲が強すぎる傾向にあるものの、それで彼の実力が損なわれるわけでもない。むしろ如月流の名を背負い、世に知らしめることを使命とすることで、いっそう技は冴えわたるのだ――
(……だからって、これはねえだろ)
 ハワード・コネクション。ビリー・カーンのデスクである。
 部下からのメールにひととおり目を通すと、彼は溜息を吐いた。調査任務を遂行したのち十日も行方不明になっていたユナ・ナンシィ・オーエンが見つかった。それはいい。
 不幸中の幸いというべきか、調査で入手させた禁止薬物の効果は解析に回すまでもなく、彼女によって身をもって証明された。言ってしまえば自白剤の一種だ。従来のもののように脳に致命的な損傷を与えることもない。捕らえた敵のスパイを有効に活用するための研究だ。報告書を見たギース・ハワードは多少興味を示したようだったが、件の製薬会社に対してふたたびアクションを起こせとも命じなかった。
 つまりサンプルさえ手に入れてしまえば、ハワード・コネクションでも再現はできる。
 そのくらいありふれている。だからこそ相手もユナを殺しはせず、試験運用のつもりで投薬したのだろう。もしユナがハワード・コネクション――ビリーの許へ帰還していたら、やはり研究所の解析に回してそう大事にもならなかったに違いないが。
「まあ、こういうのも相手が悪かったっていうんだろうな」
 としか言いようがなく、添付されていた請求書を削除する。これは如月影二からで、件の組織を代わりに壊滅させてきた。ついては報酬としてこれくらい寄越せというものだった。
「勝手に潰してきて、勝手に恩を着せるんじゃねえ」
 この場にはいない、元チームメイトに向かって毒づく。
 実際のところは自分の女に薬を盛られた腹いせに大立ち回りをしたあとで我に返って、ハワード・コネクションに恩を売っておこうと思いついたとか――そんなところに違いない。
 部下へのメールにひとこと、添えておく。
 ――てめえの男だ。てめえで落とし前つけろ。
 返信を見た彼女は、またいつものように大仰に嘆いてみせるのだろう。
 想像すると、少し笑えた。知らず緊張していたらしい。肩から力が抜けていくのを感じて、忌々しさに舌打ちをひとつ。あんな部下でもいないよりはマシだからな。誰に聞かせるでもなく言いわけをして、せめて見舞金くらいははずんでやろうとエンターキーを叩いた。

 ◆◆◆

 揺れるカーテンにちらりと視線を向けて――ユナはひそかに息を呑んだ。
 夜明けの月を背負って帰った忍びの男は、途方もなく美しい。たとえ汗と隠しようもない鉄錆の臭いをまとっていようとも。彼はただ一言、静かに、けれど激しい熱を孕んだ声で、
「帰った」
 とだけ言った。
「おかえり」
 応じつつ。この天邪鬼な忍びのことだ。明日になれば「ビリー・カーンにうまく使われた」と、苦い顔でぼやくのだろうなと思わないではなかったが。それはそれ、だ。
 ユナの代わりにあっさり仕事を終えてきた彼は、そのまま浴室へ向かうこともせずベッドに飛び乗ってくると、そのままの声色で告げてきた。
「報酬を支払ってもらおう」
「そんなこと言って、ビリーさまにも請求書回すんでしょ」
 喉を鳴らして笑うと、傷がまた痛んだ。ハワード・コネクションの息がかかっていない極東の島国にも、金さえ積めば患者の素性は問わないというもぐりの医者はいる。
 彼らは患者が夜半に運ばれてきたとしても驚いたりはしない。詮索してくることもない。
 慣れた荒い手つきで素早く処置を終え、一言。
「払うものを払って、とっとと帰れ」
 それで終わりだ。
 固定された肋骨のあたりを撫でながら、ユナは細く息を吸った。正直なところ懐の具合はそう悪くはない。ハワード・コネクションの手当ては破格で、今回に至っては見舞金も支払われるに違いないのだ――が。
「怪我の治療費で、赤字なんだよね」
 下手な嘘をひとつ。
「ほう」
 影二は唇の端を歪めて、珍しく愉快そうに頷いている。それで――と訊き返してくる彼に、ユナは答えた。たぶん、こちらの方が高くつくのかもしれないなと甘く予想もしながら。
「だからさ、これじゃ駄目?」
 自分の胸のあたりに、トンと手を置いて。
「それで手を打とう」
 間を置かず答え、のしかかってくる彼の熱い吐息を首に感じる。
 それだけで全身が震えた。
「怪我人だろうと容赦はせんぞ」
 囁きを合図に、唇を重ねてくる。口づけは、あのときよりももっと優しい。
 ――なんだかんだ言って、加減してくれるんだよね。
 影二が聞いたらまた臍を曲げそうなことを考えて、ユナはひそかに笑った。
 だから彼を愛しているのだ。
 たとえば次の瞬間に彼の手で殺されたとしても、悔いも恨みも残らぬほどに。
「えいじ――」
 ほんの一瞬、唇が離れた。その隙間に名を囁く。それで十分だと知っていた。
「みなまで言うな」
 案の定、最後まで言わせてもくれない。
 どうしてと視線で問うと、彼は囁き交じりに返してきた――これ以上、担保に取られては敵わん。その言葉の意味は分からなかった。ただ、ひとつだけ感じたこともあった。
 ――あのさ、影二。わたしってもしかして、自分で思ってるよりもものすごく……
「影二に愛されてるのかな」
 嫌がられるだろうなと思いつつ。言わずにはいられなかったのだ。
 影二は少しだけ腹を立てたような顔をして、いっそう体重をかけてきた。折れた肋骨が、無事だった内臓が悲鳴を上げる。呻き声で言葉が途切れると満足したのか、乱暴な手つきで胸元を掻き開いた――あるいは照れ隠しだったのかもしれない。そんなことを思いながら、少しかさついた唇が胸の先に触れるのを眺め、
 慣れた快楽を与えられることもなく、一秒。二秒。三秒。
 聞こえてきたのは、穏やかな吐息だ。
「……え、ね、寝落ち? あの、わたしも結構その気だったのに……?」
 胸の上に倒れ込むようにして寝息を立てる男の頭を抱えたまま、ユナはそっと笑った。先の問いかけに対する明確な答えを、もらったような気もした。自惚れてもよさそうだね。小声で囁いて、体の中にじわりと広がる鈍い痛みを感じる――甘さも痛みもなにもかも、影二に与えられたものだと思えば愛おしかった。






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