――足止めにもならん。
 が、彼女の狙いは他にある。
 ナイフを避けた勢いのまま地面を蹴りつけ、電球を失った街灯の柱を駆け上る。
 影二が空を横切るように跳躍したのと、背後から小さな爆発音が聞こえたのは同時だった。
――随分、念入りなことだ。爆風に煽られながら、口の端には知らず笑みが浮かんでいた。恋人が牙を剥き出しにして襲い掛かってくる、この状況は普通の恋人同士なら悲劇でしかなかったに違いないが。
「生憎、普通とは程遠いものでな」
 街灯を蹴りつけ、そのまま下降する。様子見代わりに放った蹴りは、あっさり躱された。そうでなくては面白くない。再び距離を取り、互いに隙を探る――とはいえユナの手の内は、言うまでもなく傍で見ている。あるいは上司であるビリーより、詳しいかもしれない。
 拳銃を構えるユナを見つめるうちに馬鹿らしくなって、影二は両手を体の横へ放り投げた。それを見ても猶、ユナは眉をひそめるでもない。心臓に狙いを定めているように見えるが、フェイクだ。狙いはわずかに左に逸れている。影二を掠める程度に。本命は二弾目だった。敢えて避けやすい攻撃を仕掛けることで、次の一撃を確実にたたき込む。その道筋を作る。戦略としては初歩も初歩だが、技術として容易かといえばそうではないところがユナらしい。
 彼女のそういう抜け目のなさを、影二は密かに愛していたが――
「……これが初見ならば、よかった」
 溜息と同時。策もなにもなく、真っ直ぐユナに切り込んだ。
(知っている。お前のことなら、なにもかも)
 ハワード・コネクションに拾われる前は、スラムで寝起きをしながらメッセンジャーで食いつないでいたといった。それなりに器用で機転も利くが、単純に戦闘経験が足りない。
 案の定、銃口が迷った。
 こちらは躊躇いなく拳を突き出す。気配で察したのか、ユナがわずかに体を引いた。それで勢いを殺されはしたが、避けるまでには至らない。さらに踏み込む。容赦なく。
 鳩尾に掌底が入った。手ごたえはあった。
 ユナの華奢な体が冗談のように吹き飛んで、壁にたたきつけられる――そのさまを最後まで悠長に眺めるようなことはしなかった。追撃の構えで地面を蹴る。相手に体勢を立て直す暇を与えないのは、戦闘における鉄則だった。結局のところ攻めた者が勝つ。
 それだけの話でしかない。
「さて、ここまでか。ユナ・ナンシィ・オーエン」
 崩れ落ちかけた体を地面に引き倒し、胴に馬乗りになった。見上げてくるユナの瞳は、相も変わらず鈍い色だ。先の衝撃で口の中でも切ったのか、顎に伝う鮮やかな鮮血が美しい。
 そうと思ったときには唇を重ねていた。
 舌を口腔にねじ込んで、傷を探る。舌先で傷口をえぐる。喉の奥からせりあがってきた小さな呻き声を呑み込んで、いっそう深く犯した。鼓膜に響くぐちぐちとした不快音と、ユナの苦鳴が合わさって、奇妙に心地いい――どれだけそうしていたのかも分からない。
 ややあって
「え……い、じ」
 息継ぎの合間に聞こえてきた。
 おのれの名を呼ぶ声に、影二はふっと顔を上げた。ユナの揺らぐ瞳とかち合った。
「お前も、もういい加減飽いただろう」
 囁く。吐息とともに。溜息とともに。
「拙者も飽いた。余興としては、くだらぬと一蹴するほどでもなかったが」
 闘うことを生業とする者が持つ血の衝動というべきものが去ってしまえば、そんなものだ。
「お前とは、拳を交わすよりも……」
 ――愛がよい。
 言いかけてやめた。あまりに馬鹿げていた。だから代わりに、ユナの体を撫でた。
「こちらの方がよい」
「……それはそれで、なんか気が利かないよね」
 ようやく口を開いたユナは、憑き物が落ちた顔でそう言った。
 情けなく下がった眉に、なんとなく緩んだ口元。それから――よく晴れた空と同じ色の瞳。呆気ないくらい、いつものユナ・ナンシィ・オーエンだった。それで影二も、思わず笑った。
「遅いぞ、ユナ」
「十日くらい大目に見てよ」
「拙者は待てぬ性質(たち)でな」
「それは、まあ、知ってるけど……」
 曖昧に頷いて、思い出したように脇腹のあたりを撫でる。
「あのさ……肋骨、折れたよ。何本だろ。結構痛い」
「だが、殺しはしなかった。薄情の代償と思えば安いものだろう」
「それは、うん。そうだけど」
 納得はしていないらしい。
 他にやりようはなかったのかと責める彼女の瞳に、影二は軽く肩をすくめた。
「痛みが効かぬなら、お前を縛り上げ腹がはちきれるまで水を飲ませて胃の中のものを一滴残らず吐かせるか、蒸し風呂に放り込んで脱水するまで水分を絞る案もなくはなかった」
 うげ、と顔をしかめているユナにこちらは笑いながら続ける。
「薬の可能性が高いと踏んでいたものでな。仮に暗示だったとて、まあ衰弱死手前になれば効果も薄れる。とはいえ、拙者に惚れている女に目の前で無様な姿を晒させるのも酷だ」
「……なんか影二のそういうの、久々に聞いた気がする」
「そうだな。そもお前がいなければ、成り立たぬ会話だ」
 付け加えた一言は、余計だったかと思いながら。
「……ユナ」
「ん?」
 余計ついでだと、目を丸くしている彼女に告げる。
「あまり、気を揉ませるな。然しもの拙者も、お前が死ねば四日は夢見が悪くなる」
「……四日だけ?」
「四日も、だ」
 重大な秘密を打ち明けるように、耳元で。
 半分は本音で、半分は見栄だった。確かに四日も経てば悪夢には魘されなくなるだろう。けれどおのれをもっとも愛した女のいない世界で生かされるのは、心を失うのと同義だ。
 ――そういえば。
 ユナから二度目の告白をされたときの話だ。
 惚れたら負けだと、愛を囁く代わりに心を担保に差し出した。そのことを思い出した。
(ならばもう、取り戻すこともできぬか)
 ユナは身をよじったが、くすぐったさよりも痛みの方が勝ったのだろう。笑い声が呻き声に化けるのを聞きながら、影二はもう一度だけ笑った。胴の上から降りて、立ち上がる――今回にかぎっては、助け起こしてやることも忘れない。
「さて、お前の治療をして……」
 ――後始末をせねばな。
 ふらつくユナを支え、影二は夜空に向かって囁いた。
 大気が怯えたように震えた気がした。






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