03

 夜はすっかり更けて、あたりに人の姿はない。薄く掛かった雲の向こうで月がぼんやり輝いている。
「旅立ちって感じはしないけど、まあわたしらしいよね。こういう天気って」
 ひとりごちつつ一歩を踏み出したところに、空からふわりとなにかが落ちてきた。反射的に受け止める。
 黒い鳥の羽だった。
 はっとして顔を上げると、数メートルの上空で影二がこちらを見下ろしていた。
 暗がりに表情は分からない。
「どこへ行く?」
 静かな問いかけに、ユナは答えた。
「さあ。とりあえずビリー様を追ってみようかなって。今回のこと、報告しなきゃならないでしょ。それでクビになったら、ちづるさんみたいに全国行脚でもしてどこに腰を落ち着けるか決めようかな」
「夫を放って、か?」
 影二がそれを言ったことに、ユナは驚いた。
「離婚でしょ? 決着もついたし」
「烏天狗にバツを付けるわけにはいかぬ、と言ったのはお前だ」
「でも、生涯をともにする相手は影二にも選ぶ権利があるんじゃなかった?」
 訊き返すと、ほんの少しだけ動揺したような気配が伝わってきた。一拍の空白をおいて、囁きにも似た声が聞こえてくる。
「お前が望むのなら選んでやってもよい」
 どこまでも彼らしい物言いだ。
 ユナは少し笑って意地悪く返した。
「言ったら、仕方なしに選んでくれるの?」
「いや」
 影二が即答し、黙り込む。
 少し強い風が間を吹き抜けていく、そのタイミングで間を取ったのかもしれない。闇より濃い色の髪をなびかせながらユナの前まで降りてくると――今度は――ふたたび口を開いた。
「考えていた。ずっと」
 あるいは独り言だったのかもしれない。
「なにを?」
 訊き返すユナに、彼の返事は少し遅れたが。
「理由を。どうして? と訊かれた、それゆえに……というのは、これも正しくはないな」
 自分でも納得できない様子で呟きつつ。
 ややあって気付いたように顔を上げた。
「悪くはないと思ったのだ。ああ、悪くはないと思ってしまった。面白いことなどひとつもないというような顔をしていた小娘が、オレのふるまいひとつで右往左往する様を」
「酷いこと言われた気がする」
「酷いものか。こちらとしては相当に恥ずかしいことを言わされたような心地だ」
 実際、夜目にもはっきり分かるほど耳を赤くして。それで視線を逸らすということもなく、影二は続けてきた。
「だから――」
「だから?」
「また、いつか――は、認めぬ」
 懐から取り出した一筆箋を細かく裂いて風に飛ばす。その黒い翼で何度か斬撃を送ると、紙吹雪は跡形もなく消えた。
「そうだね」
 まるで最初からなにもなかったような中空を見つめたまま、ユナは頷いた。
「じゃあ、改めて……どこから改めようか?」
「なにもかもはじめから。夫婦固めの盃を交わして、互いに言葉を交わさねばならぬ。知っていることも、知らぬこともすべて」
 ついと手を差し出してくる。
「だったら……」
 その手に自らの手のひらを重ねると、ユナは笑った。
「最初の行き先は、影二の故郷がいいな」
「相分かった」
 烏天狗が穏やかに答え、彼の翼が巻き起こした一陣の風が夜の闇とぼんやりした月明かりを優しく掻き混ぜた――それで終わりだ。
 後には影の色よりなおも濃い鳥の羽が数枚、残されているだけだった。
 



END




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