09

 はぐれ者の意地だ。
 死に怯え生きることを切望したとて、日々に寄り添う者もない。ならばいっそ、惨めに足掻くことはしたくないと腹を括る。諦める。
(分かっているからこそ、あの恨み言は効く)
 影二は溜めていた息を吐き出すと、地上にそっと視線を落とした。
 ――悪くないかなって思っちゃったんだよ。自分以外の誰かがいる生活とか、花嫁って呼ばれることとか、全部ね。
 強敵に挑みたいがために吐いた嘘の価値は、いまだ計りかねている――この葛藤が馬鹿らしくなるほどの利益をもたらすものであるのか、否か。けれど冷えた頭で考えてひとつ確かになったのは、目的ひとつのために随分多くを傷付けてしまったということだった。ユナはもちろん、太歳の出現を警告するために現れた雅典娜、そして彼女を追ってきた拳崇。街に住む人々。
(拳崇……)
 影二はふと思いついて、少年に声をかけた。
「アテナを守りたいか」
 どちらも酷い有様だ。特に防壁を張りながら戦闘を続けていた雅典娜の消耗が激しい。彼女の背を支えながら、拳崇は頷いた。
「当然や」
「ならば……」
 影二はもう一度だけ、ぎしりと歯軋りをした。体の痛みなど瑣末だ。その決断をすることの方が――力の証明を命題とする――烏天狗にとっては苦痛だったが。それでも、気付いてしまった以上は借りを返さなければならない。
「どこ行くん――」
 制止を振り切るようにして上昇する。高く。高く。雲の上へ。風を集め、雲を集め、口の中で術法を唱える。あたりが不意に暗くなる。
 まだだ。まだ足りない。
 はじめは細かった雨の糸が次第に太くなり、激しさを増していく。並の生きものではその場へ留まっていられないほどに。
 そうして滝のような雨が降り始めたことを確認すると、影二は地上へ向かって叫んだ。
「登れ!」
 その声が届いたかどうかは甚だ疑問だったが。
 意図は伝わったに違いない。地上にあった拳崇の気配が俄に変わった。長い歳月を生きた魚のものから、神性――この世の理から外れた生きものへ。下から吹き上がる突風に、影二は一度だけ目を瞑った。
「まったく、無茶言うで」
 声に、ふたたび目を開ける。
「確かに、鯉は滝を登って龍になる。せやかて空を登るんは前代未聞や」
 龍に変生したばかりの少年は笑っている。
 言葉とは裏腹に勝利を確信した顔だった。体からみなぎる龍の気が、その自信を裏付けている。拳崇は傷付いた少女を大事そうに手の中へ隠すと、訊いてきた。
「オレに任すってことやな?」
 その問いかけにいくらかの腹立たしさを感じつつ。
「ああ」
 影二は素直に頷いた。
 慌ただしく龍が駆け抜け、すでに登竜門は閉じた。雨雲の気配は去り、今は灰色の空とぬかるんだ地面にだけ大雨の名残がある。
「どういう心境の変化か、訊いてもええ?」
「死なせぬと約束した」
「そっか」
 それで納得したというわけでもないだろうが、気を利かせたのだろう。代わりに、
「で、手筈は?」
「きっかり三分後。全力で太歳を潰せ」
「確かに猶予はあらへんけど、みじかない?」
 拳崇は心なしか不安そうに訊ねてくるが。
「拙者にはこれがある」
 決して折れない翼を折り畳むようにして、影二はそのままほとんど垂直に降下した。
 気配を感じた太歳がこちらを向く――目の代わりに口を大きく開けて待ち構えている。想定通りだ。躊躇うことをせず、そこへ飛び込む。
 赤い闇に視界が閉ざされ、濃い死臭に嗅覚も狂わされる。体の機能がひとつひとつ奪われていくのを、たとえば根の国へ降るというのはこういう感覚なのだろうかと受け入れながら下へ下へと落ちていく。凶神とも畏れられたあやかしの体内はもちろん見たままというわけではなく、奈落を思わせるほどに深い。
 だが。結局のところ食われたものの行き着く先、というのは同じだ。加速して落ち続ければ、すぐ彼女の許に辿り着くことも分かっていた。
 立ちこめる死の中、ほんのわずか別の匂いが混じる。
「ユナ」
 名を呼ぶ音で呪を紡ぎ、ようやく生まれたかすかな光をそっと投げる。蛍よりも儚く頼りない明かりはゆらゆらと落ちていき、あたりをうっすらと照らした。桃色の粘りけある肉壁に沈み込むようにして目を瞑っていたユナは、何度か瞬きをした。光に反応したのだろう。
「えいじ?」
 と、応えてきたのは条件反射のようなものだろう。こちらを捉えたその瞳がふっと翳るのを、影二は見逃さなかった。
「勝ったの?」
 それでも、たったひとこと。
 聞いた瞬間、酷く胸が鬱いだ。放っておいた小さな傷口が、いつの間にか膿んでいたような。そんな心地でユナの頬に触れる。
「これから拳崇が片を付ける」
「太歳を倒したかったのは影二でしょ?」
「ああ」
 はじめて不思議そうな顔をした彼女に一度頷いて、影二はかぶりを振った。
「だが……いや、時間がない」
 翼を広げる。己の体と人間の娘ひとりを覆う程度わけはない。龍の放つエネルギーに耐えることも不可能ではない、はずだ。
「死なせはせぬ。これはオレの意地だ」
「ずるいね、影二は。自分のことばかり」
 これから起きることを予感してか、ユナは少しだけ眉間に力を込めた。
「今にはじまったことでもなかろう」
「開き直るし……」
「だが騙したことは悪かったと思っている」
「今更、遅いよ」
 片腕だけでこちらの体をやんわりと押し返してくる――その柔らかな拒絶に影二は自分でも予想外なほど狼狽した。
「オレに助けられたくはないと?」
「ううん。その逆」
 ユナは軽くかぶりを振ると、呆れた顔で笑った。手元の肉壁に爪を立てる。弾力はあるが、硬いわけでもない。消耗しきった女の手でも、力を込めれば簡単にちぎれる程度のものだ――もちろん、ちぎれた箇所から瞬く間に再生していくが。
「勝手に運命委ねたくせにさ、被害者みたいな顔して拗ねて……ごめんね?」
 囁くように言って、手の中の肉に歯を立てる。止める暇もない。止めろと腕を掴んだときにはもう、その喉は太歳の肉片を嚥下している。愕然とする影二の頭を、彼女は両腕で抱くように包み込んで――刹那。
 目を開けていられないほどの強い光が。




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