07

「あー!」
 思い出したように、拳崇が叫んだ。
 ユナを指さし、
「そうや! 太歳や! そのアザ!」
「え?」
「それ、死んだ人間の呪いやないで」
「太歳の呪い。目印です」
 拳崇の言葉を引き継いだのは、鬼車だった。
「すぐに戻るからって言ったのに」
 ちらりと拳崇を見て困ったように呟いている。
「けど、アテナぁ……」
 途端に項垂れる彼の様子を見るに、彼女こそが雅典娜なのだろうが。困惑するユナに気付くと、彼女は傍に降りてきて、その場で一度くるりと回った。まるでコートを脱ぎ捨てるように赤い毛皮が剥がれて、中から少女が現れる。くっきりとした目鼻立ちで、長い睫毛が目の下に影を落としている。
 そのためだろうか。無邪気そうな反面で、どこか憂鬱そうにも見えるのは。長い髪は朝の陽射しを浴びた菫のように輝いて――文句の付けようもない美少女だ。
「あなたを蝕む呪いは太歳の一部です。あれは決して諦めない。あなたを食らいにやってくる。何者も敵わない。古くから存在し続ける災厄そのものだから……」
「でも、影二は」
 ユナは困惑気味に影二を振り返った。
「下等なあやかしだって」
「…………」
 やはり目を合わせようとしない彼に――
「もしかして、知ってた?」
 なんとなく察するものがあって、訊ねる。
 沈黙は少し長引いた。
 それだけで答えは明らかになったようなものではあったが、そのままだんまりを決め込まなかったのは影二なりの誠意なのかもしれなかった。
「……ああ」
「なにが目的だったのか訊いてもいいかな。いや、怒ってるわけじゃないんだよ。雅典娜さんの言うことが本当だったら呪いを解く方法を探すって前提から話が違ってくるし、そもそも契りを結ぶ意味もなかったんじゃないかって……」
 言いながら辛抱強く見つめる。
 と、彼はようやく目を合わせて告げてきた。
「太歳など、そうまみえるものではない。太古の昔から在り続ける凶兆。神と畏れられることさえあるあやつを倒せば、己の強さを証明できる」
「強さを証明できる?」
「如月の烏天狗が背負う宿命だ。常に最強であらねばならぬ。己より強いものがあれば必ず倒す。それが我らの在り方で、であればこそ創世の神より折れぬ翼を与えられた」
 そこで一度言葉を切る。
 言い淀んだ理由は、すぐに分かった。
「お前とともに行動すれば近い将来、太歳の方からやってくることは分かっていた。だが強い呪いを身に帯びた以上、他のあやかしどもも引き寄せられてやってくる。あるいは、お前の方から求めてゆく――ブラックドッグに八百比久尼、そしてそこの小僧、鬼車。事実に気付いた何者かが、太歳がやってくる前にお前を殺さぬとも限らなかった。実際、八百比久尼などはよっぽどお前を殺したかっただろうが……」
「影二がそうさせなかった」
 ユナはぼんやりと呟いた。
「ああ」
 影二が首肯する。
「烏天狗の花嫁を殺したとなれば個の問題ではなくなる。誰にも手出しをさせぬためにお前と契りを結ぶ必要があった。呪いを抑えるためではなく」
 彼の言い分は、おそらくそれですべてなのだろう。

「な、なんやそれ――」
 真っ先に声を上げたのは拳崇だった。
「そっか」
 それを無理やり遮って、ユナはふっと呟いた。
「最初に言ってくれたらよかったんだよ」
 言葉に出した途端に冷静さを取り戻してしまうのは、幼い頃からの癖のようなものだ。それでも視界が精彩を欠いていくのは止められない――
「考えてみれば、どっちでも同じだし。呪いを解く方法を探すか、影二が元凶をやっつけるか……ってそれだけの話。思ったより早くどうにかなりそうって分かったのは、むしろよかったのかな」
「この烏天狗がしくったら死ぬで。自分」
「覚悟はしてたことだしね、元々」
 溜息とともにそう返してから――影二はしくじらないよ、と、それくらいのことは言った方がよかったのかもしれないと気付いたが。
 結局なにも言えずに、ユナは押し黙った。
 なにかが来ることを感じてしまったからだ。あやかしですら気付かない程度の微弱な振動が、電流のようにびりびりと全身に伝わってくる。
 地面が割れたのは、その直後だ。正確にはユナの足元が地響きとともに消失した。内臓が上に押し上げられるような不快さを喉の奥に戻して。
 ちらと下を見ると、見覚えのある赤い闇が広がっている。そこはすでに太歳の咥内だった。まるでドームの屋根が閉じていくように、空が狭くなっていく。視界の中で、狼狽する拳崇を雅典娜が抱えて浮き上がるのが見えた。
 そして影二は、
「ユナ!」
 地面から浮いて手を伸ばしてくる。
 ユナはなんとなく逡巡した。その一瞬で間に合わなくなることも、やはりなんとなく分かってはいた。
「ほんとはさ」
 彼に聞こえなければいいなとも、聞こえればいいなとも、どちらつかずに思いながら囁く。
「ちょっと恨んでる。悪くないかなって思っちゃったんだよ。自分以外の誰かがいる生活とか、花嫁って呼ばれることとか、全部ね」
 本音をひとつ、残して落ちる。
 落ちていく。
 落ちて――
 どこまでも赤い景色も見飽きて、ユナは目を瞑った。湿った柔らかななにかに受け止められても、そのまま。




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