05

 その頃――
 地上を歩く二人は、目視できない遥か上空でのやり取りなど知るはずもなく。

 平日とはいえ、大通りはそれなりに賑わっている。陽射しを避けて歩きながら、拳崇は上機嫌だった。買ったばかりの新しい洋服に袖を通して、すれ違っていく男を時折振り返っては「オレの方がええ男やろ?」と、歯を見せて笑う。
 向かう先は決まっていた。彼を拾った公園だ。
「あの公園で、雅典娜の気配を感じたんやけどな。確かめる前に、気ィ失ってしもたから」
 と。
 そういうことならばと向かってみようという話になった。元より、他に手掛かりもない。
 通りに沿ってしばらく歩いて行くと、銀色の車輪止めが見えた。拳崇が身軽に飛び越えていくのを横目に、ユナもゆるりと後に続く。中はやはり無人だった。
「珍しいな」
 そう頻繁に足を運ぶわけでもないが、それでも日頃なら学校帰りの子供や散歩中の犬などは見かける時間帯だ。揃いも揃って姿が見えないのは不自然だった。
 拳崇は噴水を覗き込んでいる。
「なにかあった?」
 訊ねると、彼は振り返りもせず水の中に手を突っ込んだ。時間によって定期的に水がわき上がるタイプで、水かさは子供の脛あたりまでしかない――
「雅典娜の血ィやな」
 手ですくった水の匂いを嗅ぎながら、拳崇が言った。
「血? 怪我してるの? 雅典娜さん」
「いや」
 否定したきり、押し黙る。
 またあの顔だ。と、ユナは思った。無邪気さの消えた大人びた顔――というのは、長く生きる彼らに対して相応しい言葉ではないのだろうが。ともかく思い悩んでいるような、どこか想い患っているような、そんな様子で噴水に映る自分の顔を見つめている。それから、ややあって。
「雅典娜、オレの存在に気付いとる」
 ぽつりとそう言った。
「え?」
「血で結界張って人払いしてくれたんやな」
「意識がなくなってる間に鯉に戻っちゃったら大騒ぎになるもんね。人魚だって」
「けど……」
 それを言うまいか迷ったのだろう。
 逡巡ののち、拳崇は耐えかねたように呟いた。
「けど、せやったらなんでオレの前に姿を現してくれへんかったんやろ」
「拳崇」
「オレが捜してきたって分かっとるのに」
 手のひらに溜めた水が指の隙間から零れていく。
 身動ぎもしない彼に、ユナは声を和らげて訊ねた。
「拳崇はさ、どうして雅典娜さんを捜してたの?」
 そっとしておいた方が、あるいはよかったのかもしれないと思わないではなかったが。そのまま、じっと返事を待つ。何度かの瞬きのあとで、拳崇はようやく口を開いた。
「雅典娜とオレはなあ、同門なんや。元は西海のほとりに深い山があってな。滝壺に住むお師匠さんが、あたりに棲む生きもののの世話をやいとった。雅典娜がお師匠さんを訪ねてくるようになったんは、ちょうどオレが普通の鯉やないなって自覚するようになった頃」
 少し顔を上げて、眩しそうに空を見上げる。
「ここは、空が狭いな」
「建物が多いからね」
「西海の空は広くて、透き通っててな。雅典娜の赤がよう映えた。地上にあやかしはぎょうさんおったけど、空は雅典娜だけのもんやった。それで……」
 そこで一度、言葉を切る。
「あんなに綺麗な生きもの、見たことないって」
 ほう、と。
 吐息とともに、拳崇は小声で吐き出した。

「修行もしてこのとおり変化もできるようになったけど、空は飛べへん。それだけが悔しいわ。鯉が空飛ぶためには、あと何百年修行したらええんやろな」
「努力家だね」
「そうでもない。なんせ動機が不純やから」
 最後だけ冗談めかし、濡れた手を服の裾で拭う。
「ここには戻って来そうにないな。匂い辿って、別のとこ行こか?」
 と、拳崇が立ち上がったとき――
 不意に地面が揺れた。
「地震……にしては長すぎ!」
 はじめは弱く。まるで地中の底からなにかがやってくるように、次第に強さを増していく。立っているのもおぼつかず、屈み気味で噴水の縁にしがみつきながら、ユナは叫んだ。
「拳崇、ナニコレ!」
「オレかて分からん!」
 とはいえ、拳崇自身は揺れの中でもバランスを崩さず立っている。彼は吊り橋の上でも歩くような足取りでユナの方へやってくると、早口で告げてきた。
「せやけど嫌な感じや。逃げるで」
「ちょっ――」
 返事をする暇もなく担ぎ上げられて舌を噛みそうになるが、そのおかげで救われたのは確かだった。次の瞬間には地面に亀裂が入り、噴水を中心として陥没したのだ。
「おわっ、危なっ!」
 ユナを抱えたまま、拳崇が後退る。亀裂から飛び出してきた影を避けるように、そのまま一歩、二歩、三歩と下がり続ける。
 そうしていくらか距離を取ると、相手(?)の姿もはっきりした。バスケットボール大の球体だ。生理的嫌悪を感じさせる桃色で、表面に走る血管のようなものが時折びくびく脈打っている。
 その姿には見覚えがあった。
 以前見たそれとは多少様子も違うが、
「山の村で見た……! ナンデ、ここに」
 名前も定かでない肉の塊。
 影二曰くの下等なあやかし。
 そして、呪いの元凶――
「なんや、知り合いなんか?」
「いや、わたしの知ってるやつよりだいぶ小さいけど……ほら、この呪いの」
 腕を振りながら、ユナは答えた。
「こういうのって、どこにでもいるの?」
「いて堪るか! 初めて見るわ!」
 会話の最中も、肉塊はダムダム跳ねながらこちらの様子を窺っているように見える。つるりとしたそれを睨みながら、拳崇がひとつ舌打ちをした。
「意外と隙がないな、こいつ」
「そうなの?」
 答える代わりにユナを担いだまま、右へ左へステップを踏む。そのたびに肉塊は明確な悪意を持って回り込み、行く手を阻むのだった。
「ほんなら、やるしかない」
「降りようか?」
「アホ。あんな肉の塊ひとつ、片手で十分や」
「それ、フラグじゃない?」
「ふらぐ?」
「や。分からないならいい。ごめん。黙るね」
 首を傾げる拳崇に、片手を振る仕草で答えて。
「ああ。舌噛まんよう気ぃつけや」
 ふっと息を吸い込み、それで雰囲気が変わった。青白い光が体中をめぐるように立ち上り、静かな熱を放ちはじめる。拳崇は軽快なかけ声とともに地面を蹴りつけると、肉塊へ向かって鋭く踏み込んだ――一歩が大きい。そして、早い。後ろへ飛ぼうとする肉塊の間合いに飛び込み、ど真ん中に爪先を押し込む。




TOP