03

 影二が手伝いたがらなかったため、少年をアパートへ連れ帰るのは骨が折れた。
 曰く、
「しおらしくすればオレが言うことを聞くと思って。先日のツケも返してもらっておらんのだぞ」
 と。途方に暮れるユナを珍しく放って、どこかへ飛び去ったのだった。呆れられたというよりは、なんとなく別の目的があったように思える――実際、影二は去り際に夕刻までには帰るとも言った。
「誰かに会いに行ったのかな?」
 近くに知り合いがいるという話は聞いたことがないが、そもそも彼については知らないことの方が多い。そんなことを考えながら、ふと思い出したのは神楽ちづるの言葉だった。
 ――誰も彼もが秘密を持っている。
 ビリーの秘密は、ブラックドッグを殺したことで彼自身がブラックドッグに変じる呪いを得たことだ。
 日頃はある程度自由にその能力を使えるというが、満月の影響が特に強くなると、望む望まないにかかわらず変身してしまう。肉体への負荷も相当にかかるようで、本人は一日も早く呪いから解放されることを望んでいる。
「影二の秘密、か」
 気にならないと言えば嘘になる。
 だが、訊けるような関係ではないというのが実際のところだった。彼との夫婦契約は結局のところ仮初めのものだ。しかるべきときが来れば解消される。その事実を理解すればこそ、もう一歩を踏み込む気にはなれない――
(っていうのは半分言い訳、かな)
 胸の内でひとりごち、少年を抱える。公園の入り口に呼びつけたタクシーの姿が見えたのだ。降りてきたドライバーにいくらか多めに運賃を渡して、知人が具合を悪くしたからとアパートまで運ばせた。
 意識の戻らない少年の体を二人がかりで二階まで抱え――顔には多少のあどけなさが残っているとはいえ、背丈は一般的な成人男性とほとんど変わらない――ようやく部屋に着いた頃にはユナ自身も汗でぐっしょりと濡れていた。
「影二、いる?」
 奥の部屋に呼びかける。返事はない。
 ユナはひとつ溜息を零すと、少年の体をバスルームまで引きずった。浴槽に水を溜め、その中に彼を放り込む。迷いつつも服は脱がせなかった。溺れないよう時折肩を引っ張り上げてやりながら、五分。いくらか不安になりはじめた頃。
「ぷっはぁ!」
 少年が大きく口を開け、息をついた。
「いやあ、助かったわ」
 奇妙なイントネーションで言って、浴槽の中でうんと伸びをする――そうしてぱちりと目を覚ました彼は、ユナに気付くとあからさまに困惑した顔で訊ねてきた。
「……って、誰?」
「誰って訊かれると困るんだけど……」
「なんや鳥臭いな、自分」
「事情があって烏天狗と一緒に暮らしてるから。そういうキミは、魚らしいじゃん?」
 こちらも訊き返す。
「鯉や、鯉。鯉の拳崇」
「ケンスウ?」
「そう。お師匠さんがそう呼ぶから、それがオレの名前なんやろなって。よう知らんけど」
 ぱしゃぱしゃと両手で水を跳ね上げながら、拳崇。あやかしの同居人と聞いて気も緩んだのか、いつの間にか下半身は魚のそれに変わっている。彼は窮屈そうに上着を脱ぎ捨てるとバスタブから上半身を乗り出して、気楽そうに言った。
「オレ、知り合い捜してんねん」
「知り合い?」
「そ。そいつもオレも中国のあやかしなんやけど、急に姿が見えんようになってな。目撃情報を頼りに後を追ってきたと、そないなわけや。迷惑かけたな」
 言うが早いか、拳崇は両腕の力だけでひょいとバスタブを乗り越えた。
「これ、借りるで」
 手すりにかかっていたバスタオルを下半身に巻き付け、両手を奇妙な形に組み合わせる。密教の九字切りにも似ているが、まったく同じでもない。喉から聞こえてくる弦楽器を掻き鳴らすような音は、彼本来の?声?だろうか。人語ではないその音が響くと、狭い浴室の空気がほんのりあたたかくなったような気がした。
 青い鱗がみるみる光沢を失い、傍目にはほとんど人の皮膚と変わらなくなる。消えた尾鰭の代わりに二本の足でしっかり床を踏むと、拳崇は人好きのする顔で笑った。
「本音はもうちょい水の中にいたかったんやけど、悠長にもしてられへんし。そろそろお暇させてもらうわ」
「あてはあるの?」
「ないけど、まあどうにかなるやろ」
 日本に来た経緯からして、それが性分なのだろうが――どうにも楽観的な彼に、ユナは苦笑いで返した。
「って言うけどさ、まだ服も着てないじゃん?」
「着てきたやつは――」
「びしょ濡れだよ。適当に買ってくるから、それまで少し休んだらどうかな。着替えて、準備できたらわたしもその知り合いを捜すの手伝ってあげるから」
 言ってから、かえって怪しいかとも思ったが。
「オレのこと食ろうても不老不死にはなれへんよ? 半人半魚の連中と違うて、所詮は術やし」
 案の定、拳崇も訝ったようだ。半眼でじとりとこちらを見つめたまま、じりじり後退っていく。
 ユナは顔の前で手を振って、言い直した。
「あー、ごめん。別に不老不死が目的じゃないし、理由のない善意ってわけでもないよ」
「せやったら、どんな理由があんの?」
「わたし、呪われててさ」
「烏天狗に?」
「違う違う。話せば長くなるんだけど、死んだ人間にちょっと。化け物に襲われて、わたしだけが助かった形だったから。で、その呪いを抑えるために烏天狗が結婚してくれたわけね」
 改めて言葉にしてみると奇妙な話ではある。拳崇も腑に落ちないのか、首を傾げた。
「なんやそれ。えろう気前のいい話やな」
「うん。自分にも責任があるって。呪いを解く方法が見つかったら離婚すればいいからとも言うんだけど、期限のない契約って向こうにも迷惑じゃん? だからあやかしを見つけたら片っ端から呪いを解く方法に心当たりがないか聞いてみようと思って……」
「どれ。見せて」
 覗き込んでくる彼に、ユナはシャツの袖をめくってみせた。ミミズ腫れにも似た赤い痣は、あの日以来手首にとどまっている。消えることも広がることもなく。
「おお? おおお?」
 痣を見た拳崇が目を丸くした。
「なに、その反応?」
「いや、なんや見たことがあるようなって」
 彼はしばらく考え込んでいたが。
「まあ、雅典娜に会えれば分かるやろ」
 顔を上げると、そう言った。
「あてな?」
「そ。オレの捜してる子。はよ会いたいなあ……」
 故郷の景色と雅典娜の姿でも思い浮かべているのかもしれない。溌剌とした瞳を細め――そうすると途端に色めいて、どこか得体の知れない雰囲気をも感じさせるのだが――彼は湿った吐息を零したのだった。




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