02

「雲――?」
 ユナは頭上を仰いだ。
 なにかが陽の光を遮っている。雲ではない。血のように赤い鳥だった。体長は人間の大人ほどで、九つある頭をすべてもたげなにかを探しているように見える。もっとも高い位置を飛んでいるために、向こうはこちらに気付いていないようだったが。
「あれ、なに?」
 訊ねる声は引き攣った。山で遭遇した肉塊と同じような得体の知れない気味の悪さがあった。
「鬼車だな」
 影二は顔をしかめている。
「鬼車?」
「凶兆を運ぶ鳥とも呼ばれる唐のあやかしだ。本来あやつはそれぞれ異なる意思を持つ十人の娘であったが、あるとき一人が人間と契って戻らなかった」
 そこで一度言葉を切り、少し言い淀んだが――
「……そのことを甚く悲しんだ残りの九人は?我らは決して離れぬよう?と、九人でひとつのあやかしになったのだ。元より羽衣女と呼ばれる。衣をまとうことで動物に変化する種族であったためにな。けれど、自分たちの許を離れた十人目の娘が心配なのだろう。人の子に降りかかる災難を予感しては、その者の家に血の涙を落として知らせる――と言われておる」
 ややあって彼は溜息交じりにそう続けた。
 頭上の影は、すでにどこかへ去っている。
「へえ」
 恐ろしい話ではないものの、やはり不吉さはある。とはいえそれを口にしてしまうことも憚られて相槌だけを打つと、ユナはあたりを見回し――ぎょっとした。
「もしかして、あの子のこと教えてくれたのかな」
 通りに面した公園の噴水に腰半ばまで浸かるようにして、少年がひとり倒れている。公園の中は珍しく無人で、行き交う人々も彼には気付いていない。
「影二」
「まったく……」
 なにか言いたげな烏天狗を急かして駆け寄る。
 少年は衰弱しているようだった。浅い呼吸を繰り返してはいるものの、助け起こしても意識は戻らない。
「すごい熱。熱中症かな。この陽気で長袖のタートルネック着てれば、そりゃ具合も悪くなるだろうけど。これって、救急車呼んだ方がいいよね?」
「いや」
 携帯電話を探そうとしたユナの手を押さえて制すと、影二は少年の袖口をめくった。
「よく見ろ」
「あっ」
 言われるまま覗き込んで、ユナは声を上げた。その手首から上には青い鱗がびっしりと並んでいる。
「この子、人間じゃないんだ?」
「ああ。魚だな」
「サカナ?」
「大概の生きものは長い歳月を生きるとあやかしになる。こやつもその類であろう。しかし、魚が陸に上がって来るとは無謀も無謀……」
 よっぽど呆れたらしい。指先で少年をつついている烏天狗に、ユナも途方に暮れた心地で言った。
「これじゃあ病院には連れて行けないね」
「近くの池にでも放っておけ」
「近くに池なんて――あっ」
 もう興味もなさそうに立ち上がった影二と腕の中の少年とを交互に見ながら、はたと気付く。こちらの表情に気付いた彼は、酷く嫌そうな顔をしたが。
「水の中に入れてあげればいいんだよね?」
「……まさか拾って帰る気か?」
「他にどうしようもないし、かといってこのまま放って帰るわけにもいかないし……」
 つまりは、それが事の発端だった。




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