鯉は鬼車に恋をする

 空を見上げることが多くなった。彼女と出会ってから。青い空を、灰色の空を、赤い空を、黒い空を、白い空を――大きく広げた翼で自由に泳ぐその姿が、どうしようもなく美しくて、眩しくて。ああ、自分も彼女とともに飛べたのならと願わずにはいられなかったのだ。

 *

「ビリー様、仕事がてら飯縄の情報を集めてみるって言ってたけど……大丈夫かなあ」
 若狭から戻って数日、ビリーは北信地方へと旅立った。相手が飯縄権現ということで、サウスタウンのギースも興味を示したらしい。
 飯縄の呪法を探るよう命を受けたという話だった。
「ギースとやら、存外に部下想いなのか」
「どうだろね。ギース様は合理的な方だから、多分飯縄の呪法に興味を持ったっていうのも嘘じゃないと思うんだよ。ビリー様の呪いが解けて、面白そな力も手に入ったらラッキーみたいな」
 ビリーを見送った帰りである。烏天狗と並んで歩くのも、もうすっかり慣れてしまった。途中で買った缶コーヒーを両手で弄びながら、ユナは彼に訊ねた。
「そういえば、飯縄権現も烏天狗なんだってね。影二は知り合いだったりしないの?」
「知己ではあるが友誼は結んでおらん」
 肩をすくめ、影二。
「八百比久尼も言っていたように、ひとつの場所に留まることのないやつだ。おまけに多くのあやかしどもから恨みをかって追われる身ともなれば」
「恨まれてるの? ナンデ?」
「そも八百比久尼の神楽、飯縄権現の草薙、百面金毛九尾の八神は陰陽寮に属する退魔師であったと伝え聞く。世は平安、魑魅魍魎が跋扈していた時代。折しも時の帝が大蛇ノ神に魅入られた。退魔師どもは辛くも大蛇ノ神を封じたが、それぞれに呪いを得て人ならざるものに――さりとて、あやかしどもとの確執がなくなるわけでもなし。そういった話だ」
「そっか。ソッチの世界も難しいんだ」
 分かったような分からないような、曖昧に頷きながらタブを引く。小気味よい音とともに香ばしい香りが鼻腔をついた。口に含むと苦味はすぐ喉の奥へ抜けて、人工的な甘みだけが残る。その不自然な甘さが嫌いではないユナである。
「影二も飲む?」
 隣からの視線を感じて、缶を差し出す。
「ああ、もらおう」
 影二はあっさり頷いた。
 烏の嘴を模した面を外すと傍目にはほとんど人間と変わらない。薄い唇を飲み口に寄せておそるおそる中身を舐める――その姿を眺めているうちになんとなく緊張してしまって、ユナは無意識に掌を握りしめた。
「あんまり、美味しくないんじゃないかな」
 誤魔化すために開いた口からは、上擦った声しか出なかったが。
「ああ」
 頷く影二はどこか憂鬱そうだった。こちらの様子に気付いたふうもなく、缶を見つめたままぽつりと呟く。
「美味くはないが、お前の好きなものを知っておいてもよいかという気分になった」
「花嫁だから?」
「いや――」
 否定しかけて、
 彼はそこで迷ったように言葉を詰まらせた。沈黙の意味も分からずに見つめ合ったまま数秒。不意にあたりが暗くなった。




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