07

「って言われても……」
 ユナは少なからずひるんで、一歩後退った。影二とビリーを見る――それぞれに思うところでもあったのだろう。彼らはなにか言いたげな眼差しを返しているが、やはり続く言葉はない。
 仕方なく、ちづるに向き直る。
 そこにあるのは自分とはまったく違う女の顔だ。けれどどうしてか。自分自身と向き合っているような落ち着かない心地になった。
「ひとつだけなら……」
「なにかしら」
 人形のようにカクンと首を傾げる彼女に、訊ねる。
「ビリー様を人間に戻す方法。知ってる?」
「あなた自身のことじゃなくていいの?」
 驚いたというよりは、ただ予想が外れたという顔だった。訊き返してはきたものの、然程興味がなさそうでもあった。そんなちづるにユナは軽く頷いた。
「わたしは現状どうにでもって感じだし」
「おいっ――」
 影二が慌てて声を上げるが、構わず続ける。
「もしも自分のことを訊いたとしたら、きっとこの後あなたを捕まえることになるんだと思う」
「そう言っていたわね」
「帰りの時間を考えても二羽のウサギを捕まえてる暇ないし、だったら、最初からビリー様のこと訊いた方がよさそだなって。チャンスがあるなら過去に戻ってやり直したいって、そんなふうに思うくらいの後悔を放っておくわけにもいかないから」
 問答はそれで終わりだった。
 ちづるはひとつ頷くと目蓋を閉じて音もなく息を吸った――途端にあたりの空気が細かく震え、水面が下から上へ流れはじめた。まるで逆流する滝のように。
「なにが……」
「慌てないで。約束を違えたりはしないわ。わたしは」
 身構える男たちを一瞥すると、彼女ははじめて唇に笑みを含めた。長く結んでいた蕾が綻ぶような美しさに、ユナは身動ぎすることもできず立ち尽くしていた。どれだけそうしていたのか。永遠にも思えるほどの一瞬――けれど、実際はまばたきをするほどのわずかな時間だったに違いない。ちづるは細い指先で虚空に円を描いた。
 水鏡のキャンバスに、鮮やかな炎が日輪を描く。
「ビリー・カーン。飯縄を訪ねなさい」
「飯縄?」
「そう。飯縄権現。祓う者。わたしのようにひとところにはいないけれど、彼を捜すくらいはわけないでしょう?」
 そうして彼女の口元から笑みが消えたとき、あたりもまた正常を取り戻した。上から下へ、すべての水が流れ落ちたあとにはもう八百比久尼の姿は消えている。
「消えちゃった……」
 静まりかえった洞窟の中、ユナは呆然と呟いた。
 まるで白昼夢でも見ていたようだ。とはいえ、振り返ればそこには紛れもなく黒の妖犬と化したビリーの姿もある。彼は犬のように――まさしく姿は犬そのものだが――体を何度か震わせ水気を飛ばすと、酷く疲弊した声で言った。
「……帰るぞ」
「奥へは、いいのか」
 訊ねる影二にかぶりを振って、
「いらねえよ。不老不死になったところで、オロチの眷属にされちまうなら意味がない。あのお方のあるじは、あのお方自身だけだ。オレも、他の誰かを主人と仰ぐつもりはない」
 ぐいとひとつ伸びをした。
「そうですね」
 ユナは肯定すると、ビリーの隣に並んだ。
「礼は言わねえからな。ああいうときは他に不老不死になる方法がないか訊くもんだろ、ギース様のために」
「ええ、まあ、そうでしょうね」
 小声でたしなめてくる彼に、小声で告げる。
「でも、不老不死も喫緊の問題ってわけじゃありませんし。またぼちぼち探せばいいかなって」
「呑気なやつ」
「まあ、そうなんでしょうね」
 ビリーが呆れたように鼻を鳴らして離れていく。もしかしたら多少は照れがあったのかもしれないが。そんな彼の後ろ姿を眺めていると、入れ代わるように影二が隣へやってきた。
 こちらはいくらか面白くなさそうに、
「なにが?そうなんでしょうね?だ。浮気者め」
「そういう感情とも違うんだけど」
「いっときの恋愛感情よりなお悪い」
「もしかして、妬いてる?」
「というよりは、そうだな。拾った仔犬に名をやって飼い始めたら、元の飼い主が現れた。そんな心境だ」
 気難しく唸る影二に――他に言いようもなく――そっかと返すと、ユナはちらりと背後を振り返った。ふと後ろ髪を引かれたような心地になったのだ。
 流れる水の音に紛れて、囁く声が聞こえたのは気のせいだろうか。

 ――誰も彼もが秘密を持っている。彼の秘密は、あるいはビリー・カーンよりも罪深いかもしれないわ。

 彼とは誰のことだろう?
「おい、ユナ。立ち止まってどうした」
 疑問を掻き消す声に顔を上げる。影二だ。少し先で足を止めて、追いついてくるのを待っている様子だった。早く来いと手を差し出してくる――山の村でも霧の街の記憶でも、現実に繋ぎ止めてくれた――その手のひらと彼の顔とを交互に見つめ、ユナは頷いた。
「なんでもないよ。行こう」




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