06

「影二」
 言われるままに繰り返す。
 どこかで渇いた音がした。

 前後不覚の光の渦は、暗闇であることとどう違うのか――ユナがそんなことを思ったのは、目蓋の上から激しい光に刺し貫かれて、目を開けることもできなかったからだ。ただ、自分の手を握っている存在があるのは分かった。
「影二……」
 三度目だ。
 呼ぶと、どこか安堵したような声が返ってきた。
「ようやく我を取り戻したか、ユナ」
「そうだね。わたし、ユナだよね」
 そう答えて、ユナは深く息を吐いた。彼がそこにいることを信じたまま、瞳に力を込めて数秒。光が収束し、次第にあたりの景色も落ち着いてくる。
目が慣れてしまえば、そこは元の洞窟でしかない。
「どういうこと?」
「鏡は真実を映し出す。それだけのこと」
「真実……」
 影二の言葉を繰り返して、はっと気付いた。彼にしがみついたままだ。
「ご、ごめん!」
「構わぬ」
 言葉どおりまったく気にしていない様子の影二から離れて、ビリーの姿を探す。水面はもうすっかり静まり返って、泡のひとつも浮かんでいない。
「さっきの、なんだったんだろね。鏡が真実を映し出すって言うならさ、子供だったビリー様が化け物殺して呪われたって話? ナンデ、わたしが巻き込まれたの」
「それは本人に訊きなさい」
 答えたのは影二ではなかった。
 美しい黒髪を腰のあたりまで伸ばした女がひとり。水面に爪先で立つようにして佇んでいる。彼女は涼しげな眼差しをちらりと岩陰へ向けた。その視線を追うと、例の――ブラックドッグがぐったりと体を休めていた。顔の中心で燃えていた二つの目は、今は失意の青に変わっている。懐かしさを感じさせる色だ。それが誰なのかはすぐに分かった。
「ビリー様」
「見るな」
 酷く傷付いた声で、黒の妖犬がうめく。
「くそ尼、てめえ覚えてろよ」
「恨んでみたところで、いつまでも仲間に隠しておけるようなことではないでしょう。月齢が満月に近づくほど妖犬の支配は強くなる。人の姿を保つことも困難なほどに」
「そうは言っても十年に一度だけだ。体の自由が利かなくなるのは……」
 肩をすくめる女を睨み付け、ビリーは四肢で立ち上がった。何度かふらつきつつも、こちらへ戻ってくる。ユナの顔を見るとさすがに多少気まずそうに目を伏せたが――
「詳しい話はあとだ。今は、あの女を捕まえるぞ」
 きっぱりとそう言った。
「あの女って……」
「八百比久尼」
 これは影二だ。声を聞いてはじめて彼の存在を思い出したように、女は意外そうな声を上げた。
「あら、珍しい。山の怪がこんな場所に」
「そう珍しいことでもなかろう。あやかしに呪われた者は、大抵がおぬしを探す。その名以上に生き続け、人の世もあやかしの世も知る女……」
 ――神楽ちづる。
 知己のように、影二が囁く。八百比久尼――神楽ちづるは笑いもせず、悲しげにかぶりを振るだけだった。
「わたし自身もオロチを封じて呪われた身。天寿に任せて死ぬことも叶わずいまだ生き続けているというのに、なにを頼ろうと言うの?」
 ちづるの倦んだ声に、影二が答える。
「ブラックドッグに呪われた男はともかく、この娘は死の紋を刻まれている。今は拙者と契って呪いを抑えておるが、このままというわけにもいかぬ。おぬしが封じたオロチの肉を口にすれば、あるいはと……」
 言ってから、こちらの視線に気付いたらしい。彼は説明不足を詫びるように言い足した。
「昔話において八百比久尼は人魚の肉を食べて不老不死を得たとされているが、厳密に言えば違うのだ。同じ鱗ある生きもの――オロチと呼ばれる、この地球上すべての生きとし生けるものを見守る存在を封じたことで、その呪いを得た。永遠を司る彼者の肉は、食べた者にも不老不死を与えるとも言われている」
「馬鹿げているわ」
 ちづるが言い捨てた。じろりと影二を睨んで続ける。
「確かに、この奥には千年前にオロチの触媒となった男の肉体もある。口にすれば千年や二千年は生きられるでしょうね。彼女のことを知る人がなくなっても、ずっと一人で、オロチの眷属となって……一体、どちらが残酷な呪いかしら」
「オロチの眷属……」
 繰り返したのは、ビリーだ。
「ただ不老不死になるわけじゃねえのか」
「人外の者から得る力は、すべてが契約。すべてが呪い。そのことは、あなたも身に沁みているはず」
 そう言われてしまえば返す言葉もなかったのだろう。沈黙した二人の男から視線を外すと、彼女はユナに向き直った。すべてを見透かす鏡のような瞳にほんの少しの憐憫と優しさを込めて、告げてくる。
「可哀想な子。かつてのわたし。あなたを助けることはできないけれど、ひとつ質問に答えてあげましょう」




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