05

「いや、でも」
 言いかけたところで続く言葉もすぐに見失って。
「忠勤と見て見ぬふりを同じにするなよ。問題を先延ばしにしたところで結末が変わるわけでもなし」
 結局、そんなふうに釘を刺されてしまう。
「だからって、ずかずか踏み込めるようなものでもないデショ。本人が秘密にしてるんだからさ」
 それだけ反論して、ユナは何事もなかったように歩き出した。腑に落ちない顔で、影二がふたたび隣に並んでくる。
「そんな調子だから呪われたのだろうな」
「どういう意味?」
「生への執着の薄さ然り、個体として生存競争に向いておらぬ。優しさと言えば聞こえはいいが、要は生きものとしてもっとも大切な能力を欠いているわけだ」
 探るような声色だった。侮蔑というより挑発の類だろうとはすぐに知れた。
 ちらりと視線を向けると、横目でこちらの様子を窺っている彼と目が合った。腹を立てているような、心配しているような、複雑な感情が見え隠れしている。
 ――優しいのはどっちなんだろうね。
 と、それを口に出すことはしないが。
「そういうのとは、ちょっと違うかも」
 反論は予想外だったのかもしれない。なにがとも、ではどういうことだとも返ってこない。口だけを開けて言葉を探している影二に、ユナは少し笑って告げた。
「六つのときからの付き合いなんだよ」
「…………?」
「ビリー様も別に隠してないから言うけど。わたしの親が死んでね、ギース様の施設に引き取られたのがそれくらいのとき。で、施設を仕切ってたのがビリー様。ああ、ボスとかそういうんじゃなくて皆のオニーチャンって感じでね」
 一度言葉を切る。
 懸念したのは前を歩くビリーに聞こえていないかということだったが、少し見た限り彼の様子は変わらない。後ろの様子は気にせず――ある意味、それも信頼ではあるのだろうが――どんどん進んでいく。
 なんとなくほっとして、ユナは続けた。
「わたしも手のかかる子供だったから随分面倒を見てもらったって、そういう話。ギース様みたいに、人材を選別して育てるって意図もないんだから、無償の善意だよね。多分。だからこそ頭が上がらないし、影二のいうような?余程?のことなら余計になにも訊かずに信じたげたいかな……ってクサいかな、こういうの」
 思えば誰かに話すのははじめてだなと思いながら、影二の反応を待つ。彼は鼻の頭にはっきりと皺を寄せ、難しい顔をしている。ややあって、
「……見て見ぬふりより、なお悪い。謀られた気分だ」
 そう言った。
「どういうこと?」
 こちらの問いかけには答えず、ぷいとそっぽを向いて離れていく。気まぐれな烏天狗だなと思いながら、ユナは小さく息を吐いた。

 二十分も歩いた頃には、入り口からの反射光ももう届かない。あたりは無明の闇だ。ヘッドランプに切り替えてさらに奥を目指す。蜘蛛の糸以降は意外にも罠らしいものはなかった。
 ここを訪ねてくる人間を追い返すには、あれで事足りるという話なのかもしれないが。
「あの――」
 さすがに落ちつかない心地で、前を歩いていたビリーに声をかけた――そのとき、
「シッ」
 鋭い制止が飛んできた。それがビリーの声だったのか、あるいは影二の声だったのか判断が付かないまま。次の瞬間、ユナもそれに気付いた。音だ。足元から。
 こぽこぽと水が泡立っている。
 まるで一斉に沸騰をはじめたように。
「チッ」
 舌打ちしたのは――これはビリーだろうと、今度は分かった。それが聞こえてきたときには、ユナの体はふっと宙に浮いていた。
「世話の焼ける嫁だ」
 声に、肩越しに振り返る。影二と目が合った。
「え、影二」
 嫁。何度聞いても耳に馴染まない単語だ。彼が本気で言っているのかも分からない。見つめ合っているうちに気まずくなってしまって、ユナは顔をそらした。
「ありがとう。ビリー様は」
 あたりに上司の姿を探しながら、訊ねる。水面を埋める泡はもう人の背丈ほどの大きさになっていて、彼がどこに避難したのかも見えない。視界が悪すぎる。
 焦るユナをよそに、影二はあっさりかぶりを振った。
「知らぬ」
「え、うっそ。困る!」
 先までの羞恥心も消し飛んで抗議するのだが、彼は薄情なものだった。ユナを抱えたまま水面に近づくどころか、素知らぬ顔で上昇していく。
「オレは困らん」
「ビリー様のことも助けてよー」
「生憎、腕が足りぬのでな」
「じゃあ、わたしがビリー様を掴むから」
「二人分の体重を支えさせる気か?」
「烏天狗ならわけないでしょ?」
「卑怯な言い方をするな」
 言い合っているうちに自然と声も大きくなってくる――といっても興奮していたわけではなく、水の泡立つ音が激しくなっていたからだ。声を張り上げなければ聞こえないほどに。
 そのことに気付いて、ユナは制止した。
「待って……」
 パンッ!
 すべてを掻き消す破裂音は、大きく膨らんだ水泡が勢いよく弾けた音だった。頭上から滝のように降り注ぐ水が、あるいは鏡のように二人を映して――
「まずい!」
 影二が珍しく狼狽している。ユナを抱えたまま退こうとしたものの、わずかに遅い。
 それと目が合った。
「……わたし?」
 水鏡に映る、もうひとりの。
「そう、わたし」
 彼女がいった。いいや、ユナ自身が。
 その瞬間にどうしてか頭の中がいっぱいになってしまったのだ。戻らなければ。あの日に。なにもかもをやり直す術が、この先にある――そんな気がした。
「この馬鹿者――!」
 耳元で彼がわめいている。知っている声のような気もするし、知らない声のような気もする。大切な人だったような気もするし、さして知らない人のような気もする。声には構わず、ユナは手を伸ばした。指先が触れる。とぷりと沈む冷えた感覚に身を任せる。

 *

 ユナ・ナンシィ・オーエンはどうやって家族を亡くしたのか覚えていない。?ふたり?で生き残っていたところを警官に保護され、簡単な聴取や診察を経てギース・ハワードの児童養護施設に送られた。
 ――酷い火事だったな。
 それを言ったのは誰だったか。
 ――大勢が死んだ。警官も何人か死んだ。俺も目をやられたよ。まあ生活に支障はない。お前がそんな顔をすることもない。妹さんは無事だ。
「いもうと?」
 いもうと。いただろうかと考えて、ユナは思い出した。妹。確かに、いた。なによりも大切な妹。本当にそうだろうか。なにかが引っかかる。
 ――ああ、今は手当てを受けている。救援が来たんだ。ハワード・コネクションが研究所の方からドクターを掻き集めて連れてきた。ジェームスはいい顔をしなかったが、拒むわけにもいかない……って子供にする話でもなかった。悪い。
 男が喋っている。サングラスをかけた金髪の――こちらをじっと見つめて、心配しているような気配もある。けれど懐かしさは感じなかった。思い出せない。彼は誰だ。自分と妹を保護した警官。名前は?
 ――それにしても、火の手から逃げている最中に野犬に襲われるとはツいてなかった。転がっていた鉄パイプ一本で妹を守りきるとは大したもんだ。本当に、お前はよく頑張った。だから……
 彼は一度言葉を切ると、視線を少し上げて堪えるような仕草をした。なにかを悲しんでいるようにも見えた。そうしている時間は、然程長くはなかったが。彼はまた向き直ってくるとユナの頭に手を置いた。
 ――もう泣いたっていいんだぜ。ビリー。
 声に。
「わたしは」
 ぎしり。ひときわ大きく記憶が軋む。
「ビリー?」
 ユナではなかったか。違ったのかもしれない。違った、ような気もする。唯一にして確かであったことさえ分からなくなってくる。ビリー。ビリー・カーン。その名前は知っている。だとすれば自分はビリー・カーンなのだろう。その事実に、どれほどの違和感を覚えたとしても。
 彼女は、いや、彼は椅子から立ち上がった。
 ビリー・カーンであることを認めてしまえば、もう戸惑うことはひとつもなかった。自分が次になにをすべきか頭の中に流れ込んでくる。あの十字路へ向かわなければ。妹を抱え炎から逃げて、逃げて、逃げて、差し掛かった――
 月明かりが大きく射し込んで昼間のように明るかった。そこに、それはいた。四つ足で地面をしかと踏み、天に向かって呪詛を吐くように長く吠えていた。
「月のない夜はいい子にしてなきゃヘカテーが来る。月の大きな夜はヘカテーの支配から解き放たれた狂えるブラックドッグが悪さをしにやってくる……」
 黒をまとう獣。あの警官が言ったような野犬などではない。別の理に存在するなにか。生きものではないなにか。眼窩には目玉の代わりに地獄の炎がふたつ燃えていた。不幸を運ぶ犬の亡霊。死の先触れ。
 本能で危険だと察した。そういった勘だけは誰よりも鋭かった。それがビリー・カーンの不運でもあった。
 近くに転がっていた鉄パイプを拾って、立ち向かったのだ。逃げても無駄だと分かっていた。相打ちでいいとも思わなかった。殺そう。その?なにか?を。殺して、殺して、完膚無きまでに殺して、怪我をした妹を安全な場所まで連れて行かなければ。あのときはうまくいかなかった。辛くも勝って、けれど隙を突かれてこんな体に。
「なるほど、黒の妖犬を殺して呪われたか」
 この場にはいなかったはずの誰かが言った。
「だが、お前には無理だ」
 誰かが。
「お前はビリー・カーンではないし、なによりお前にビリー・カーンは殺せまい。ユナ」
 その声には聞き覚えがあるような気がする――
「えいじ」
 自分が何者であるかを忘れた彼女は、ごくごく自然に男の名を口走った。もう一度、と彼が言った。




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