04

 警察官J・クローリーの回顧録

 あの日はいい天気だった。空気が乾いていた。この街でもスーパームーンが見られるぞと、そういった話題で持ちきりだったことを覚えている。
 ただ上司のジェームスだけが憂鬱そうに――こんな日には気をつけるんだな、と言った。
「月の大きな夜は■■■■の力が弱くなる。■■■■■■■の気が狂うのさ」
 随分とまあ古い伝説を持ち出したものだ!
 オレも幼い頃に聞いたことがある。新月の魔女と、その眷属の御伽噺。月のない夜はいい子にしてなきゃ■■■■が来る。月の大きな夜は■■■■の支配から解き放たれた狂える■■■■■■■が悪さをしにやってくる。
 どこにでもある話だろうって?
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。何故って、オレたちは現に体験しているからだ。霧の街の大火災。後の調査で、原因は廃墟からの出火とされた。かつて製紙工場だった――
 そこをたまり場にしていた不良たちが火の点いたままの煙草を投げ捨てていったために、残っていたパルプを燃料としてあっという間に広がったのだと。
 オレは疑問を覚えずにはいられない。仮に――パルプ山に煙草を捨ててしまうくらい不良たちの脳みそがシンナーで溶けていたのだとしても、製紙工場は住宅街から随分と離れていた。
 火災時の配慮はもちろんのこと、臭気対策が必要だったからな。パルプ由来の硫化物の臭いは強烈だ。住民からの苦情を少しでも抑えるため、建設の際に風向きなどもなるべく気を使ったと当時の工場長が触れ回っていた。そんな覚えもある。風向きが変わることはもちろんあるだろうが、それにしてもあの夜は悪い具合に条件が重なりすぎた。
 ――ああ、それこそ、まるで十年に一度の。
(中略)

 ***

 旧若狭国領へ入る頃には、いくらか日も高くなっていた。ビリーの後をついて列車から降りると、そのまま若狭湾へ向かった。
 港には漁船がいくつか停泊している。話はあらかじめ付けてあったのだろう。その中から一隻に目をとめると、ビリーは近くにいた猟師に声をかけたのだった。
「ハワード・コネクションの者だ」
「ああ、あなたが」
 よく日に焼けたいかにもな海の男――というよりは、隠居した好々爺といった様子だが。白髪の老人はひとつ頷いて、古いタラップを指した。
「乗ってください。食料と道具も言われたとおり積んでおきました。洞窟探索をするなら、早い方がいい」
「何故だ?」
 訊ねたのは影二だ。
 タラップも使わず飛び上がって、船首に降り立つ。
「ここの干潮は、昼前から昼過ぎにかけて四時間ほど。今日は大潮で潮の満ち引きの差が大きいんですよ。水位が上がってしまうと洞窟に入れなくなるので……」
 老漁師が答える。
「なるほど」
 頷いてから思い出したように、
「ユナ、真ん中は踏まぬようにな。腐りかけだ」
 そう言った。
「う、うん。ビリー様――」
 前にいたビリーの背中に慌てて声をかける。彼は忠告より早く、中央だけ避けるように跳ねて船へ乗り込んだ。
「気付いていらっしゃったんですか?」
「見りゃ分かる」
 と言われてあらためて見たところで、特に変わったところもなかったが。
「ユナ、早くしろ」
 急かされて、ユナは首を傾げながら船に乗り込んだ。
 海は凪いで静かだった。不吉な予感など微塵も感じさせない。漁船のエンジン音だけがあたりに響いている。船べりから少し体を乗り出して水面を覗くと、船が海を割って進む白い泡に混じって小さな魚影が見えた。陽光を反射した鱗が時折きらりと輝く。
 件の無人島――ビリーが言うところの?神の見守る島?は、正式な名を神在島というらしい。所有者は登録されているものの連絡が付かなかったため、許可は取ったということになっている。つまるところ不法侵入だ。
 島に着くと老漁師は荷下ろしを手伝い、
「連絡していただければ、どんな時間でも必ず迎えを寄越します。漁師仲間には大学の測量チームが下見に来た、と伝えてありますので……」
 と言った。
 違法であることは承知した上で引き受けたのだろう。危険に見合うだけの、あるいは見合う以上の報酬を受け取っているということか。
 本島へ戻っていく漁師を見送って、浜から少し離れた高台をキャンプ地にした。簡単なテントを組み立て、荷物を運び込み、食事はそこそこにウェットスーツに着替える――ビリーは律儀に影二の分まで用意していたが、彼は嫌がって着なかった。
 ゴムボートに必要なものだけを積んでしまえば、準備は十分だった。エンジンをかけ、洞窟に向かう。浜辺からちょうど反対側の入り江で、上は切り立った崖になっているため陸地からは回り込めない。
 ただ干潮ということもあって、洞窟の入り口はかなり広くなっていた。中に入り、浅瀬にボートを停める。
「ユナ、腕時計のアラームをセットしておけ」
 短く言い捨て、ビリーはもう歩き始めている。
「横暴な上司だ。寿退社でも考えたらどうだ?」
「まあまあ。命に関わることだから……」
 目をつり上げる影二を宥めながら、ユナは言われたとおりにアラームをセットした。帰ってくる時間を計算すると、二時間がタイムリミットといったところか。
 老漁師は大潮と言っていた。
 その言葉どおり水位はかなり下がって、場所によっては荒波に削られた岩肌も覗いている。それでも念のために空気タンクを背負う――小型の四リットルタンクでも、潜水深度を考えれば二十分はもつ。
「命に関わると言えば、これ。持って」
 ユナは予備のひとつを影二に渡すと、簡単な使い方を説明した。烏天狗は怪訝な顔をしつつも、不測の事態に必要だということは理解してくれたようだった。
 気付けば先を進むビリーの姿が小さくなっていたため、慌てて追いかける。入り口から射し込む光が水面に反射して、中は思ったほど暗くない。足元を濡らすのが嫌なのか、影二は低空飛行で水の上を進んでいく。
 風切り羽が触れるたび水面に美しい波紋が生まれる、そのさまに何度か気を取られそうになるが。
 視界の端でなにかがきらりと光った。
「ビリー様、影二」
 足を止めて二人を見る。
 彼らも進むのをやめ、宙を凝視していた。
「鳴子とは、なんともまあ古典的な」
「ナルコ?」
「糸の先に音の鳴るものをぶら下げて侵入者を知らせる罠だ。見ておれ――」
 影二が空中にふっと息を吹きかける。
 途端に黒い糸が現れた。岩肌と岩肌を繋ぐように細く何本も巡らされる糸、糸、糸。よく見ればその先には小さな蜘蛛がぶら下がって、なおも糸を張り続けているのだった。
「普通の蜘蛛じゃねえな」
 と言ったのはビリーだ。
「だが特別なものでもあるまい。水くもごとき」
 鼻を鳴らして、影二。
「火はあるか、ユナ」
「あるよ。ちょっと待ってね」
 ユナは腰に提げたポーチの中から防水ライターを取りだした。火を点けた瞬間、ビリーがほんの少しだけ顔をしかめるのが見えたが――彼はまばたきひとつでそこに浮かべていた感情を拭い去ると、影二に向かって「早くしろ」と言った。
「拙者に命令するな。貴様に手を貸してやるのは花嫁のために他ならぬ。そこを違えてもらっては困る」
「めんどくせえ」
 初対面から、どうにも相性が悪いらしい。
「エット、火を点ければいいのかな」
 努めて明るい声で、ユナは二人の会話に割って入った。奥で待っているもののことを思えば、こんなところで険悪になっている場合でもない。
 普通ではない生きものが罠を張っているということは――不老不死の尼にしろ、他のなにかにしろ、奥に人外の存在がいると証明されたようなものなのだから。
「ごめん。ビリー様も具合があんまりよくないみたいだから、ちょっと我慢して」
 影二に小声で囁く。
「何故、オレが」
「じゃあツケといて。あとでわたしが支払う」
「高く付くぞ、まったく」
 不満そうに頷くと、彼は黒い翼を大きく広げた。
 磯臭い空気が激しく渦巻きライターの炎を巻き込む。灼熱した空気が轟々と唸りを上げながら、一瞬にしてあたりに張り巡らされた糸と蜘蛛とを燃やし尽くした。数秒ののちには炎も掻き消えて、ただ熱された空気が残るのみである。
「ふっ、他愛もない」
「相手もあやかしなのに遠慮ないね」
 まっさらになった宙を眺めながら、ユナは呟いた。
「あの肉塊のときも思ったんだけど、いいの?」
「構わぬ。我らには同族意識などないも等しい。血を分けた者でもいれば話は別だが」
「いないんだ?」
 訊ねてしまってからこんな場所で訊くようなことではなかったかと気付いたが、影二は気にしなかったようだ。肩をすくめる仕草だけで肯定した。
「そういうお前も親兄弟とは縁が薄いようだ」
「まあね。分かるの、そういうの?」
「匂いでおおよそのところは」
「ふうん。便利だね」
 他にうまい言葉も見つからず、ユナは曖昧に頷いた。話題に興味を持ったのか、影二は飛ぶのをやめて隣を歩いている。高下駄の歯は不思議と音を立てることはない。一人分の足音だけが、かすかに響き――
「ん? 一人分……?」
 なにか決定的な違和感を掴んだような気がした。ハッと顔を上げ、何事もなかったように進んでいくビリーの背中を凝視する。彼の様子は普段と変わらない。どこか気怠さを感じさせる、反面で油断のならない足取りだ。
 ――だが、それにしても静かすぎはしないだろうか。
 ユナはウェットスーツの上から胸を押さえた。心臓が不穏に高鳴りはじめる。見慣れたはずの上司の背中が途端、知らないもののように見えてくる。
「気付いたか」
 影二が静かに囁いてくる。
 こちらも小声で――問い返す声は震えた。
「ナニに?」
「八百比久尼の力を必要としているのがギース・ハワードのみと思わぬ方がよいぞ。自ら危険に飛び込む者には、そうするだけの理由がある。また忠義あればこそ、傍を離れるのは余程のことと思わぬか?」




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