02

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「……呪いを解くまでの偽装結婚、なあ?」
 話の最中は三度ほど叱られたものの、終わってしまえばそれ以上引きずることもない――そういうところは、この上司の美徳だ。ようやく人心地ついて、ユナは体から力を抜いた。椅子の上で正座をしていたために、酷く足が痺れている。
 ビリーは悩ましげ息を吐いた。
「選択の余地がなかったってことは分かったが、よりにもよって面倒なやつに借りを作ったもんだな」
 話そのものは呑み込んだらしい。病院に引きずられていくようなケースも想定していただけに、かえって腑に落ちない。
「それにしても、ナンデそんなにあっさりなんですか。普通信じませんよ、烏天狗とか呪いとか……」
「そうか。お前は知らなかったんだったな」
 ふと思い出したように、ビリー。
「ナニが?」
 訊き返すユナに、彼は少し声をひそめた――元より、外に漏れるほどの音量でもなかったが。
「ギース様が伝承を集めている理由だ」
「学問的な意味での慈善事業かと」
「それは副産物だな。目的は別にある」
 ビリーが当然のように本題に入ろうとしたため、ユナは慌てて遮った。
「それ、わたしに話していいんですか?」
「知らずに続けるのも無理があるだろ。そのために今回、オレが来て――……」
 彼はそこで一度言葉を切ると、宙に浮いたまま腕組みをしている影二の方へ視線を向けた。その目は忌々しそうにも、安堵しているようにも見えた。
「烏天狗が実在したってのは僥倖だ。八百比久尼の伝説が俄然真実みを帯びてくる」
「八百比久尼?」
 その名を、もちろんユナは知っている。
 人魚の肉を口にして不老不死になったという女の話である。古く――日本における人魚とは、中国の地理書『山海経』の流れを汲んだ人外の生きものだった。特に魚に手足の生えたもの、嬰児の下半身を魚に置き換えた生きものがそう呼ばれたようだ。したがって鎌倉時代に成立した『古今著聞集』には、別府の浦人たちがひいた網に?頭は人によく似ているが歯は細かく、口は突出して頭は猿のようである。だが、体は普通の魚と同じであった?という生きものが三匹かかった記述が載せられている。
 西洋の婦魚がわたってきたのは江戸時代以降。当時の蘭学医たちが医学書から取り上げ、それが文学として流行ったようだ――ゆえに本来、西洋における人魚と日本における人魚の性質は異なるものとみなされている。
「つまり、人魚の不老不死にあやかりたいわけか」
 鼻を鳴らしたのは影二だった。
「昔から変わらぬな。人間、権力を得るとろくでもないことを思いつく。不老不死になったとて、人の子は所詮人の子でしかないというに……」
 呆れているのか、でなければ哀れんでいるのか。少し見ただけでは判断ができない表情だが。いかにも使い古された忠告に、ビリーは腹を立てたようだ。
「ギース様を、これまでの負け犬どもと一緒にするな」
 鋭く反論して、ユナを見やった。
「……話を戻すぞ。そういうわけで、次の任務は人魚探しだ。オレも同行する」
「メッセンジャーじゃなかったんですか?」
「事情が変わった。人魚の不老不死が事実なら、やりようによってはお前の呪いも解けるだろ。得体の知れない烏天狗といつまでも家族ごっこさせるわけにもいかねえし、本腰入れるぞ」
 後半は明らかに影二を意識した皮肉だった。
 再び空気がぴりつく。
 烏天狗はしばらく怒りに目の下を引き攣らせていたが、ややあって意味ありげに言い返した。
「得体云々という話なら貴様も相当ではないか?」
「…………」
 ビリーは言い返さなかった。
 代わりに、舌打ちをひとつ。
「若狭へ行く。出発は一週間後だ」
「分かりました」
 ユナは短く頷いた。話はそれで終わりだった。
 立ち上がったビリーを玄関まで見送り、簡単な挨拶だけで別れる。ドアが閉まり彼の足音が聞こえなくなった頃に、影二が耳元で囁いてきた。
「お前の上司……信用するなよ」
「どういう意味? 確かに不老不死は眉唾っぽいけど」
「ではなく。まあ、じきに分かる」
 そんな言葉だけを残して音もなく離れていく。黒い翼が巻き上げた空気に髪が煽られ、少し乱れた。
「……そんなこと言われても、さあ」
 ポケットの中の携帯がかすかに震えたのは、ユナが呟くのと同時だった。ビリーからのインスタントメッセージだ。言い忘れたことでもあったのだろうかと画面を開くと、簡潔に一言。
 ――烏天狗を信用しすぎるなよ。結婚の真似事までしてお前を助ける理由が、やつにはない。きっと裏がある。
 なんとなく置いてきぼりにされたような心地で。
 落ちてきた前髪をまた後ろへ撫でつけながら、ユナは言いようのない不安にそっと息を零した。




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