暗闇に吠える者

 遠くでサイレンが響いている。低音と高音が交互に。その、脳みそを揺さぶられるような感覚には覚えがある。覚えが。月の大きな夜だった。やけに明るい夜だった。幼い妹と手を繋いで、窓から外を見た。「今日は特別な日だから――」そう言ったのは母だったような気がする。父だったような気もする。だからなんなのか、と彼は訊かなかった。あるいは続きがあったのかもしれない。よく覚えていない。大切なことなのかもしれない。けれど思い出せない。記憶は、過日とともに霧の街に置いてきた。そうだ。霧の街だ。比喩ではなく――いつだって天気はぐずついていた。
 なのに、なぜ。あの日はよく燃えたのだろう。
 
 ***
 
 カーテンの隙間から明るい陽射しが射し込んでくる。朝を告げる鳥の声も。ユナはゆめうつつにひとつ呻いて、薄く目を開けた。時刻は六時半。アラームが聞こえてこないから、何分かは早いのだろう。毎朝なんとなく、それくらいの時間に目が覚める。それは施設にいた頃の習慣だった。兄貴分がひとりいた。いつも真っ先に起きて他の子供たちの世話を焼いていた――ギース・ハワードに迷惑をかけてはいけないという責任感がそうさせたようだ。ユナの部屋に来るのが、六時半だった。きびきびした足音が聞こえてくるので、声をかけられる前には目が覚めていた。ドアの外に気配を感じて先に「おはよう」と出て行くと、彼は気難しい顔を少し和らげたのだった。
 思い出しながら何度か瞬きをして。
「目が覚めたか、ユナ」
 天井に浮いていた男を見た瞬間、そんな郷愁も瞬く間に霧散したのだが。
「お、おはっ、おはよう!?」
 影二。と、上擦った声で挨拶を返してから思い出した。山で烏天狗と契りを結んだ、その後の話を――村で荷物を取り戻した際にも当然一悶着あった。生贄が戻ってきたのを知った村人たちに今度こそ殺されかねないところだったのを、またしても影二に助けられた形だ。彼はユナが街へ戻るならと、住み慣れた山をあっさり離れてついてきた。彼曰く、修行ができる手頃な山を選んで住み着いたというだけで留まる理由も愛着も特になかったというが、真意は分からない。
 放っておくわけにもいかないので、部屋に連れてきた。一人暮らしには少し広い、3LDK。これは事務所も兼ねているためだった。寝室を彼に明け渡し、ユナは書斎のソファで寝た。
 確かに、そのはずだが。
「あ、あれ?」
 気付けば慣れたベッドに移動している。
「女を椅子で寝かせるのは体裁が悪い」
「じゃあ、影二はずっとそうやって浮いてたの?」
 訊ねると、影二は少し考え込むような顔をした。
「止まり木で休むのは慣れている。似たようなものだ」
「もひとつベッド買ってこなきゃね。体に悪いし」
 そう決めて、ユナは起き上がった。影二を部屋から追い出して、着替えを済ませる。濃い色のワイシャツと綺麗にセンタープレスが入ったスラックスだ。サウスタウンからの客を迎えることになっていた。
(だから、昔のことを思い出したのかな)
 ひとりごちつつ。
「ユナ、まだか」
 急かしてくる影二の声に、なんとなく笑みが零れた。他人の気配を感じる朝は久しぶりだった。寝癖を軽く整え、リビングへ向かう。手持ちぶさたにしているかと思いきや、彼はテーブルの上に新聞を広げていた。
「十年に一度の巨大満月……」
「ああ、来週あたりだっけ?」
 影二の手元を覗き込む。
 紙面はスーパームーンの話題で飾られていた。満月と地球が軌道上でもっとも近づく日。いくつかの天体条件が重なって、今年は殊更明るい月の夜になると書かれている。
「気になるの?」
 訊ねると、彼は顎を引く仕草だけで肯定した。
「月が輝けば、すべての生きものは活発になる。目に見えるものも、見えないものも」
「バイオタイド仮説ね。地殻や海水や磁場が天体の影響を受けるのと同じように、生きものの体も満ちたり引いたりするとかなんとか。特に人の体は海水や地表と同じ構成要素からなるから、精神的にも身体的にも影響を受けやすいって。具体的には殺人事件や事故が多くなったり、生殖や出産に関わったり」
 ――まあ、どこまで本当かは疑わしいけど。
 これは口の中で呟くにとどめ、影二をちらりと見る。目が合うと彼は不機嫌そうに鼻を鳴らして、新聞をテーブルの隅に放り投げた。
「風情がない」
「風情でレポート書いたら怒られるし」
「誰に」
「上司。今日、ここに来ることになってるから朝ご飯早く済ませちゃわないと」
「聞いていないぞ」
「ごめん。どうしようか考えて、結論が出なかったからそのまま忘れてた」
 というのは、我ながら呑気というほかない。彼に、この烏天狗のことをどう説明したものか。多少のことでは動じない男だが、さすがに人外のものと遭ったことはない――はずである。
「まったく。お前の上司となれば、オレも挨拶をせねばならぬだろうに」
「外に出ててもらおうか迷ってたんだけど」
「断る」
「そう言うと思った……」
 チン、と音が鳴ってトースターから焼きたての食パンが飛び出した。バターとマーマレード、それから簡単なサラダとスクランブルエッグにかりかりに焼いたベーコンを添える。それだけの簡単な朝食をテーブルに並べると、影二は奇妙そうな顔をした。
「和食はあんまり馴染みがなくて。用意が間に合わなかったから、今日のところはそれでいいかな」
「あ、ああ」
「……ていうか人間と同じご飯で大丈夫だった? そのへん、イマイチよく分からなくて。他のものの方がよかったら、言って。次からはそうするから」
「いや、構わぬ」
 頷くと、彼はぎこちない手付きでトーストにバターを塗り始めた。会話が途切れる。
 バターナイフがパンの表面を撫でるざりざりという音だけが響くのをどこか心地良く思いながら、ユナは珈琲に角砂糖を二つ放り込んだ。と――
 コン、コン。
 呼び鈴ではなく、ノックが二つ。
「おい、ユナ。ユナ・ナンシィ・オーエン」
 やや遅れて外から聞こえてきた声に、影二が立ち上がった。いくらか機嫌が悪そうに見えるのは、穏やかな朝食の時間に横槍を入れられたせいかもしれない。
「起きてんだろ。オレだ――」
 ユナの返事も待たずテーブルを飛び越えていく。
「ちょっと待って、待ってってば!」
 制止も間に合わない。
 ガチャリとドアの開く音がして、
「何奴! この不審者め!」
「そりゃこっちの台詞だ! 誰だてめえ!」
 ――最悪な顔合わせになってしまった。
 睨み合う二人を前にユナは頭を抱えた。
 玄関で険悪に唸っているのはスーツ姿の男だ。サラリーマン風、と言うにはユニオンジャック柄のネクタイと頭に巻いたバンダナが印象に残りすぎる。とはいえ対峙している方も大概だ――なにせ背中から黒い翼が生えているのだから。鮮やかな青の法衣はともかく。
 バンダナの男は途方に暮れるユナに気付くと、鋭い視線を向けてきた。
「おい、ユナ・ナンシィ・オーエン」
 彼に呼ばれて背筋がぴんと伸びる。これはもう条件反射のようなものだった。前髪を後ろへ撫でつけつつ、ユナはどうにか笑みらしきものを口元に貼り付けた。
「ビリー様、あの、お早い到着ですね?」
「こっちにも事情があってな。朝メシがまだなら一緒にと思って買ってきたんだが……説明しろ」
「は、はい。どうぞ、上がってください」
 突き出された買い物袋を受け取り、壁際に避ける。
「どういうことだ。こんな男を上げて――」
「いや、この人が上司なんだってば」
 気色ばむ影二の袖を強く引きながら告げると、どうしてか彼は眉をひそめたが。ビリーの声に促されて、理由を訊き返すこともできないままリビングへ向かう。
 
 ビリー・カーンはハワード・コネクションの幹部だ。ユナよりも七つ年長で、同じようにギースの児童養護施設で育った。大火災で両親を亡くし、幼い妹を抱えて絶望していたところを保護されたのだと聞いている。そんな事情もあってか組織に対する忠誠心は人一倍厚い。
 その献身的な働きぶりを認められて、十代も後半に差し掛かった頃からすでに重要な任務に就いていた。今ではギースの右腕と呼んでも過言はない。
 ――わたしとは大違いだ。
 と、ユナは思う。
 幼い頃はそんな彼がただただ頼もしかったものの、長じるにつれてコンプレックスを感じるようになった。一つ屋根の下でともに過ごした家族というよりは、どうしようもなく頭の上がらない人――と言った方が正しいのかもしれない。
 正面に座っているビリーが指先でテーブルをひとつ叩いた。その乾いた音で、意識が引き戻される。
「別に、説教しようってわけじゃねえんだよ」
 困ったように、ほんの少しだけ声色を和らげて。
「報告は必要だ。違うか?」
「ええ、まあ。ただどう説明したらいいのか……」
「テングとやらの伝説を調べてたはずだろ?」
「烏天狗だ」
 面白くもなさそうに口を挟んだのは、影二だ。
「鼻が長い赤ら顔と一緒にしてもらっては困る」
「コスプレしてる変人とは違うんだな?」
「死にかけた貴様の部下を助けた恩人だぞ、拙者は!」
 声を荒らげる烏天狗につられたわけでもないだろうが、ビリーの声がまた大きくなる。
「死にかけた? そんなこと、報告には一言も」
「話せば嘘っぽくなるんですが、村人に騙されて生贄にされまして……で、別の化け物に襲われた上に呪われたところを助けられて、その……ごにょ……」
「なんだよ。はっきり言え」
 聞き流してくれるつもりはないらしい。眉をひそめて訊き返してくる彼に、ユナは渋々答えた。
「あの、わたし結婚しました。烏天狗の影二と」
 たっぷり十数秒。
 普通の人なら、人外の存在が出てきた時点でくだらないと一蹴したに違いない。けれどそんな話でさえ真面目くさった顔で話を聞いていたビリーは、次の瞬間に椅子を蹴り倒して激昂したのだった。
「てめえ、なに考えてやがる! ユナ!」
「ひぃん……」




TOP