なんとはなしに空を見上げた。
 その日は雲一つない快晴で、ともすれば海の青とも錯覚しそうな鮮やかさの中に魚影のような黒がひとつ。広がる翼は飛行機のものより優雅で、けれど猛禽にしては大きい。ぼんやり眺めているうちに、それは彼方へ消えてしまったのだが。
 
 *
 
 ユナは民俗学者である。
 両親は幼い頃に亡くした。ハワード・コネクションが運営する児童養護施設で育ち、今は恩人であるギース・ハワードのために働いている。主な任務は世界各地に散らばる不可思議な伝承の蒐集と保存。
 ハワード・コネクションが手がけている事業とはなんら関係ないが、身寄りのない子供たちを保護することも消えゆく物語を集めることもそう変わりはしない。ボランティアの一種なのだろう、とユナは思うようにしている。
 そういうわけで、ところかわって日本。
「天狗伝説を求めて某県の山奥に来ています。ユナ・ナンシィ・オーエンです」
 呟いたことに特に意味はない。録音しているわけでもない。まあ、雰囲気作りだ。あるいは逃避とも言えるのだろうが。
 目覚めた瞬間から後ろ手に縛られていれば、誰でも捨て鉢な気分になる。顔の上から仮面のようなものをかぶせられて視界も酷く狭い。ずきずきと鈍く痛む頭で、自分の身になにが起きたのかを考える――天狗の伝承を求めて、人里離れた山奥の村を訪ねた。それが発端だった。
 村には数年に一度、花嫁という名目で天狗に生贄を捧げる風習がある。
 昔は白無垢を着せた娘を天狗の洞穴に置いてきたなどという話もあったが、現代においてはさすがに形ばかりになって花嫁を囲んだ宴を開くに留めている。と、そんな説明をされた覚えもある。実際、宴の席に招かれて村人たちと楽しく酒を飲み交わし――
「やられた!」
 気付いて、ユナは思わず毒づいた。
 宴もたけなわといったところで、ふいに背後から殴りつけられたことを思い出したのだ。そこから先の記憶はないが、この状況を思えば生贄の風習が残っていたと考えるのが自然だろう。村にとって働き手である娘を捧げるのは痛手のはずで、この時期に年頃の女が村を訪ねてきたことで村人たちも魔が差した――といったところか。
「しくじったなあ……」
 少し体を揺すってみても縄がゆるむ気配はない。気を失っているうちに運ばれてきたせいで、どこに連れて来られたのかも分からない。伝承どおりならここが天狗の洞穴ということになるが、だとすれば絶望的だった。実在するかも分からない天狗はともかく、野生動物がねぐらにしている可能性はある。と、
「……また生贄か」
 溜息とともに、倦んだ声が聞こえてきた。
 日本語だ。同時に、ユナはほっと胸を撫で下ろした。人語が話せるとなれば、相手は少なくとも野生動物ではない。人目を避けて山奥に籠もっている隠者の類だろう。でなければ修行者か。
 息を吐きつつ顔を上げる。面に空いた小さな穴から、相手の姿が見えた。男だ。濃い色の着物に、顔の下半分を鳥に似た奇妙な形の面で覆っている。ペストマスクに似ているかもしれない。黒い嘴が、小さな金属音を立てて開いた。
「起きたか」
「うん、まあ」
 と頷くしかなく、ユナは小さく首を振った。
「ここ、どこ?」
「村人たちからは天狗の洞穴と呼ばれている。実際のところ、ただの岩穴に過ぎんが」
 律儀に答えてくる男に、さらに訊ねる。
「この縄、ほどいてもらっていいかな」
「いやに肝が据わっているな」
「言葉が通じる相手なら怖がる理由もないし」
「なるほど?」
 不思議そうに語尾を跳ね上げ、男はユナの傍に屈み込んだ。懐から取り出した小刀で縄を一気に掻き切る。
 それでようやく両手も自由になった。
「ありがと。助かったよ……って、顔も見せずにお礼を言うのはおかしいし気味悪いよね。ちょっと待って、これ外すから……」
 顔に張り付いていた狐面――触った感触でそうと分かった――を外し、彼と向かい合う。改めて見ると、まだ若い。長い髪を後ろで引き結んで、露わになった目元は厳しいが顔立ちはむしろ端整だ。けれどそれより目を惹くのは、背中から生えた一対の――
「つば……さ?」
 黒い大きな翼。人間が本来持ち得ないもの。
「うっそ」
 ぽかんと口を開けるユナの正面で、彼も驚いたように目を丸くしている。見つめ合ったまま沈黙。それからたっぷり十秒。声を上げたのも、また同時だった。
「天狗じゃん!」
「此度の生贄は村人ですらないのか!」
 互いに叫び、途方に暮れる。
 すっかり頭を抱えてしまっている天狗に、ユナはちらりと視線を向けた。気配を感じたのか、あるいは向こうもそのつもりだったのか。
 どちらともなく再び目が合ってさらに気まずい。
「えっと……なんか困っちゃうね、こういうの」
 今更恐がってみせるのも白々しいような気がして、何事もなかったように声をかける。天狗はユナの頭の天辺から爪先までを無遠慮に眺めていたが(彼の反応の方がよっぽど人間らしい)、応じる代わりにそっぽを向いた。
「帰れ」
 迷い込んだ野良犬でも追い払う手つきで一言。
 なんとなく傷いて、ユナは呻いた。
「そりゃ帰るけど……生贄の好みとかあるの?」
「そもそも生贄を寄こせと言った覚えもない。これまでの女どもにも生贄はいらんと伝えろと言い含めて帰したが、この様子では伝わっておらんな。まったく」
 ぶつぶつと呟きながら、もう用はないとばかりに外へ引き返していく。
「ちょっと待って」
「断る。道なりに降りていけば村には着くだろう」
 わざわざ帰り道を教えてくれるあたり、あるいは人間などよりよっぽど悪意はないのかもしれない。言い捨て飛び去っていく彼の姿を見送ると、ユナはひとつ息を吐いた。任務のたびにあちこち旅をしてきたが、本物の怪異に遭遇したのは初めてだ。学者のはしくれとして彼ともう少し話をしたい気持ちもあったのだが。
「ふられちゃった、なあ」
 頬を掻きつつ外へ出る。
 夜はすっかり明けていた。暗闇に慣れた目には、白い空が眩しい――何度か瞬きをすれば、それもすぐに収まった。
「……わたしも戻ろ」
 気は進まないが荷物を村に残したままだ。
「処分されてないといいけど」
 もう一度だけ溜息を吐き出して、ユナは歩き出した。夜の湿気を吸った白無垢が酷く重い。
 朝露に濡れた山道では滑落しかねないので、草履は早いうちに脱ぎ捨てた。足の痛みを紛らわすため、思考に集中する。幸いというべきか考えなければならないことはあった。たとえば天狗とのやり取りを村人にどう説明したものか、とか。
「生贄拒否で納得できるものでもないよね」
 風習としてずっと娘たちを捧げてきたのなら――
 と、声に出して呟いて。
 不意に疑問が胸を過ぎった。
(あの天狗が毎回生贄を帰してるんだとしたら、さ)
 帰されたはずの女たちは、どこへ?
 これは口には出さず。
 不吉な予感に首の後ろがぞわりとした――次の瞬間、激しいつむじ風が近くの木をなぎ倒していった。巻き上がる木の葉や土埃から顔を庇いながら、誰何する。
「誰?」
 答えはない。
 山の静寂に強い屍臭が漂ってくる。顔をしかめるユナの前に、それはゆっくりと姿を現した。
 赤い羆。
 遠目に見た人なら、そう言うのかもしれない。だがもっとたちの悪いものだ。生きものですらない。赤い肉塊の中、あちこちに人の顔が浮かんでいる。腹のあたりにぽっかり空いた黄色い歯の並ぶ口らしきものだけが、その肉塊に元から備わっている機構なのだろう。おそらく喰われたに違いない人たちはいまだ絶命することも叶わず肉塊の一部となって苦鳴を上げ続けている。悪夢のような光景だった。
「……――!」
 悲鳴は喉の奥に押し込んだ。叫んだところで意味がないことは分かっていた。それより一刻も早く逃げなければならないことも。今は白無垢に足袋だ。日頃以上に時間を無駄にはできない。ぱっと体を反転させ、来た道を戻ろうと駆け出す――が。
 耳許で風が唸りを上げた。振り返ると肉塊が大きく息を吸い込み、吐き出そうとしているのが見えた。例のつむじ風の正体だ。反射的に目を閉じそうになってどうにか押しとどめる。視界を閉ざすことの愚かさを、以前に人から聞いたことがあったからだった。この距離では左右どちらに飛んでも逃げられはしないが、せめて地面に伏せれば直撃は免れるかもしれない。そうと判断して、咄嗟に頭を下げる。と、
「それでよい」
 肯定した者がいた。
 一瞬、視界が翳る。けれど不安になる暗さではない。あたたかな闇だった。
「両の目は常に開いておけ。死にたくなくば」
 その声の主を、ユナは知っていた。この世のどんな猛禽よりも巨大で優雅な黒の翼がゆったりと羽ばたいて、あたりの空気を巻き上げる。どうということのない、ただそれだけの仕草でつむじ風が凪いだ。
「弱肉強食。成程、それが世の常ではある。拙者は貴様を責めはせぬ。何者にも貴様を咎めさせはせぬ」
 朗々とした、反面で傲慢さを伴った声が――
「ならばこそ拙者の前で屍を晒せ」
 残酷に告げた。
 それを合図にした腕の一振りで、化け物が体の半ばからちぎれる。粘土細工のように、あっさりと。二つに裂かれてなおものたうつ化け物に、黒い天狗は涼しい顔で真空のくさびを打ち続けた。肉塊だったものがやがて地面の染みとなるまで、ただひたすら。
「おわっ、おわ……った?」
 わけが分からないうちに始まり、わけが分からないうちに終わった――正直、そんな気分だったが。
 ユナはぺたんとその場にしゃがみ込んだ。すっかり腰が抜けてしまった。一週間は夢に見そうな化け物はもう姿形もなく、激しい破壊の跡と地面にできた赤黒い染みだけがその名残をとどめている。
「なんなの、あれ」
 頭上に訊ねる。
「地中を這いずる下等なあやかしだ。本来は人を襲う力も持たぬが、屍肉でも喰って味を占めたのであろう」
 天狗はユナの前に音もなく降り立つと、すっと片手を差し出してきた。
「立て」
「あ、うん。ありがと。でも、なんで……」
 その手を取りながら、さらに問いを重ねることに躊躇いがないではなかったが。
「余所者であれば戻ったところで許されぬやもしれぬと思ってな。人には、そういうところがある。おのれのために殺されるのを見過ごすのはさすがに寝覚めが悪い――」
 天狗は然程気にした様子もなく答えて、不意に眉をひそめた。
「怪我をしたのか」
「え?」
 ぐいと手を掴まれて、初めて袖口から覗く赤に気付いた。最初のつむじ風が巻き上げた小石か枝が掠めたのだろうか。みみず腫れのような痣になっている。
 それを注意深く眺めていた彼が、不意に表情を険しくした。
「いや、呪われたな」
「のろっ!? ナンデ!?」
「あやつに喰われた女どもであろう」
「そっち!? あの化け物じゃないの?」
「……余程お前を道連れにしたかったとみえる」
 一難去ってまた一難――どころではない災難に、ユナはがっくり肩を落とした。そのまま発狂でもしてしまえば楽だったに違いないが、生憎正気は保っている。
「ううっ、なんなの……村の人たちには騙されるわ、女の人たちからは呪われるわ、化け物より人間のが非道だよー……そんなのってないよー……」
「他人のことながら不憫すぎて拙者も若干引いている」
「だろうね!」
 と、返すほかなく。また他になにができるわけでもなく、ユナは痣に視線を戻した。よく見れば皮膚の下でわずかに蠢いているような、そんな感覚がある――
「これ、痣が全身に回ったら死ぬやつかな。よく聞く」
「よく聞くことではないと思うが、そうであろうな」
「なら村に戻って仕事の成果を取り返して、ギース様に連絡するくらいはできるか」
 とはいえ――
 どの程度の猶予があるか分からない以上、サウスタウンに戻るのは難しいかもしれない。日本で死ぬとなると同僚の手を煩わせるなと、溜息をひとつ。
「いつ死ぬとも知れぬというに、現実逃避か」
 だからこそ死んだ後の始末まで考えていたつもりだったが、傍目にはそれも逃避と映るのだろうか――そんなことを思いながら、少し顔を上げる。
 怒りを孕んだ黒の瞳とかち合った。
「もしかして、怒ってくれてるのかな」
「理不尽を許せぬだけだ」
「そっか。だとしても嬉しいよ」
 反面で据わりの悪さを感じて、ユナはもぞもぞと身動ぎした。あるいは、それを未練と呼ぶのかもしれない。いずれにせよ深くは考えないようにする。
「なにかひとつくらいはさ、残したいじゃん。あと死ぬなら死ぬって伝えておかないと、行方不明って迷惑かけるし。引き継ぎとかいろいろ……」
 奇妙な生きものでも見たような顔をしている天狗から、ユナは視線を逸らした。
「わたしこれでも各地で伝承集めててさ。時間があったら、あなたにも訊きたいこととかあったんだけど……そういう場合でもないから。じゃあ、元気でね」
「待て」
 引き留める声は聞かなかったふりをして――
「生きたくはないか」
 けれど背後からの一言に、つい足が止まる。
 彼が神妙に続けてくる。
「女どもの死には、拙者も責任を感じぬでもない」
「そういうの、考えはじめると鬱になるよ」
「そういう意味ではなく!」
 もちろん、そういう意味ではないと分かっていたが。
「お前に対しての責任だ。もらってやる。嫁に」
 後半は、予想と違った。というより予想外すぎた。
「…………えっと、ごめん。もう一度いい?」
 たっぷり十秒。考えても会話の繋がりが分からなかったので、ユナは仕方なく訊き返した――もしかしたら聞き間違えたのかもしれないなと思いながら。
 話の腰を折られたことが気に触ったのか天狗は眉間に少し力を込めて、
「嫁にもらってやる、と言っている。こんなことを何度も言わせるやつがあるか」
 そう言った。間違いなく。
 今度こそユナは目を剥いた。呪いのせいだけではなく頭痛を覚え、額を押さえる。
「いや、ナンデ!? この状況分かってる? そりゃあこんな恰好だし、元々生贄にって話ではあったけど! 結婚式がお葬式になりかねないっていうのに……」
「お前こそ状況を分かっておらぬな」
 ばさりと乱暴に翼を折りたたみ、天狗は偉そうに胸を反らせた。
「まだ修行中の身ゆえ誰彼かまわず加護を授けてやることはできぬ。が、契ってしまえばお前は我が半身も同然。呪いの進行を抑えるなどわけもない」
「そんなボランティアみたいな理由で……」
 眉をひそめるユナに、彼はそのまま頷いた。
「それからゆるりと呪いを解く方法を探し、離縁すればよい。仮初めの夫婦だ」
「離婚前提なんだ」
「生涯を共にするとなれば拙者にも選ぶ権利がある」
「責任ってなんなんだろ」
 ユナは溜息を喉の奥に戻して、かぶりを振った。
「やっぱいいよ。やめとこ。そんなんでバツ付けられないでしょ。天狗に」
「烏天狗だ」
「……確かに大事だよね、分類」
 職業柄――というほど大袈裟な話ではないにしろ、さすがにどうでもいいとは言えなかった。同意してみせながら、呑み込んだはずの溜息も零れたが。
 思い出したように、ちらと視線を落とす。手首の痣はいつの間にか二の腕あたりまで広がっている。進行が早い。同じようにそれを見た鴉天狗が、訊ねてくる。
「意地を張ったまま死ぬのか」
 問いかけというよりは責める声で。
「最悪の状況でさえ両目を開いて逃げる機会を窺っていたようなやつが」
 言葉とは裏腹に彼の方が傷付いているように感じて、ユナは少し唇をゆるめた。
「意地ってわけじゃないんだよ」
「ならば、なんだ」
「自分の人生に他人を巻き込むのって恐くない?」
「人ではない」
「烏天狗でもさ。こういうの、逆に我侭なんだろうなとは思うけど……」
 そこで言葉を切ったのは、肩を掴まれたからだった。
「では拙者も、我侭を通させてもらおう」
 高い音が響いた。金属の嘴が地面に落ちたのだと気づいたときには、彼の顔が目の前にあった。
「お前を死なせはせぬ」
 有無を言わさぬ声だ。
 それも勝手な話だよねとユナが言い返すよりも先に、冷たいものが唇に――触れたのは一瞬だったが、その正体を知るには十分すぎるほどだった。
 真っ直ぐに見つめてくる黒の瞳が、酷く眩しい。
「女、名は」
 訊かれるままにユナは答えた。
 答えずにはいられない響きを伴っていた。
「ユナ。ユナ・ナンシィ・オーエン」
「そうか、ユナ。オレは影二だ」
 ――お前のつがいになる男の名を覚えておけ。
 勝手な言葉とともに、体温の低い舌がぬるりと唇を割って入ってくる。瞬間、一気に顔に血が上って、
「なにすっ――!」
「夫婦固めの盃代わりだ。生き返った心地であろうな」
 遮るように、影二が耳許で囁いた。どこか得意げに。
「生き返った……」
 心地?
 近い位置にある影二の顔を見つめたままユナは愕然と呟いた。生き返るもなにもまだ死の気配を感じてさえいなかった、はずだ。
 そうではなかったのだろうか?
 自問しつつ、早鐘のように打つ心臓を胸の上から抑える――と、すとんと腑に落ちてしまった。
 あまりに呆気なく。あまりにあっさり。
(確かに、こんなに動揺したことってなかったな)
 見透かしたように、影二が鼻を鳴らす。
「随分と生者らしい顔をするようになった」
「……オカゲサマで」
 まるでペットにでも言い聞かせるようなその声音をいくらか腹立たしく思いながら、ユナは言葉を濁した。




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