それ以上言うな

 時間は止まってくれない。

 おのれがそうと痛感したことに、如月影二は少なからず驚いていた。生まれてこの方、後悔らしい後悔などしたことのない性質だ。選択を誤ったことはほとんどないし、あったところで引きずることもなかった――そこに今まではと付け加えなければならないことにいくらかの苛立ちを覚えつつも、認めないわけにいかない。やってしまった。
 仕事の都合で、一時的に帰国することになった。
 そうユナから知らされたのが一ヶ月前の話になる。詳しいことは訊かなかったが(以前聞き出そうとして、ビリー・カーンに文句を言われたことがあったのだ。曰く「付き合いに口を出すつもりはねえから、こっちの仕事にも干渉するな!」と。正論ではある)長ければ三ヶ月は戻れないというので、せめて見送りくらいはすると約束し――
 いつもの調子で修行に出て、そのまま集中してしまった。まあ、言い訳だ。
「仕方ないよ。忙しかったんでしょ?」
 電話の向こうで、ユナが少し笑う。腹立たしくなるほど物分かりのいい女だ。
(忙しかったんでしょ? だと!)
 ああ、忙しいとも!
 影二は受話器を握りしめ、慌ててその手から力を抜いた。以前、ビリーとの会話でカッとなって無線機を握り潰してしまったことを思い出したのだ。人のざわめきを背景に、彼女が続けてくる。
「寂しくないわけじゃないんだよ。でも当日に気付いて慌てて電話してくれただけ、嬉しいなって」
「それは……」
 期待値を随分と低く見積もられたものだ。
 とは口には出さなかった。電話越しに喧嘩をしている場合ではないことくらい、さすがに弁えている。
「影二」
 ユナが口を開いた。
「気にしてくれて、ありがとね」
「いや」
 他に言葉も見つけられず、影二は呻いた。気を使われてしまってかえって居たたまれない。一方、変なところで鈍い彼女は声を聞いて満足したと言わんばかりだ。
「じゃあ、そろそろ搭乗時間だから。向こうに着いたら、また連絡するね!」
「おい――」
 ちゅ。聞き慣れたリップ音とともに電話が切れる。一方的なやつめと思いながら、影二は嘆息した。電話を借りた商店の店主が興味深げにこちらを覗いているのが見えた。
 ひと睨みで黙らせ、荷物を担いで外へ出る。どれだけ急いだところでもう見送りには間に合わないが、
「こんな日にかぎって空が青い」
 頭上を仰ぎ、目を細める。ユナの瞳を思い起こさせる色だ。一度そんなことを考えはじめると頭から離れなくなってしまう。つい昨日までは忘れていたというのに。酷く忌々しい。でなければ都合がいいのか。
(ああ、そうだな)
 それも認め、影二はそっと目を伏せた。ユナを見送ってから日本に戻るまでの間も山で過ごそうと思っていたが、そんな気分でもなくなってしまった。気分。胸のうちで繰り返して、鼻を鳴らす。馬鹿な。これまで一度だって、そんな子供じみた理由で修行を切り上げたことはなかったはずだ!
 自分自身にも腹を立てながら、影二は逡巡した。
 このまま過ごす三ヶ月は長い。ならば取るべき行動はひとつではないか?

 ***

「それで翌日の便で追いかけてきたってのは、またなんというか……」
 目の前でなんとも言いがたい顔をしているのは、ビリーだ。この元チームメイトの許に足を運んだのは旧交を温めたかったから――では勿論なく、ユナの居場所を訊くためだった。
「なんだ」
 歯に物が挟まったような言い方をするな、くらいは言ってやりたかったのだが。彼女が借りているモーテルの住所を調べさせている手前、どうにか堪える。短い問いかけに、ビリーは鼻から抜けるような吐息を零すと白けた顔で言った。
「いや、つまりてめえは恋してるんだろって」





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