深く、不覚


 ももとせにひととせ足らぬ、九十九神
 我を恋ふらし、おもかげに見ゆ。

 人間界にはホワイトデーなるイベントがあるらしい。
 と、そんな知識を仕入れてきたのは珍しいもに目がない堺ノ國妖主、隠神刑部だった。のみならず、配下の鉄鼠にほすとくらぶなるものまで経営させて堺ノ國をあげての大騒ぎ。空前のほすとくらぶブームに、かつての大妖帝ぬらりひょんは少なからず辟易していた。もとより表舞台には配下を立たせての隠密行動を好むたちである。
 けれどたったひとりの妻に輝く瞳で、
「さすが、わたくしたちの朱の盆は洋装も似合いますね。ところで旦那様はお召しになられないのですか?」
 そう訊ねられてしまったら、くだらんの一言で一蹴することもできなくなってしまったのだ。
 つまりは惚れた弱みだった。
 おおよそ九百歳も離れた九十九神の妻に、旦那様の右目になるのだと言って自らの目を抉った彼女の愚かな一途さに、どうしようもなく惚れていた。だからといって隠神刑部に密かに手配させ、白の洋装にまで身を包んでみせた――と、いうのはまったく馬鹿げた話でしかない。まして、
「好いた女に、想いを伝える日だという」
 太刀や煙管の代わりに、彼女の瞳の色と同じ深紅の薔薇を携えて愛を囁くなど正気の沙汰ではない。ぽかんと口を開け、見つめ返してくる。女の顔を、苦く見つめ返す。
 美しい煙管の九十九神。月雲の女御。
(ああ、やはり性に合わないか)
 ふいと顔を反らし、口元のみを覆う面の下で息をつく。
 ――戯れだ。
 その一言を吐き出すためにふたたび息を吸ったところで、
「……旦那様。ぬらりひょん様」
 月雲が胸を震わせるように、息を絞りだした。
 煙熱を思わせる声だった。彼女の声はいつだって胸の内でくすぶって小さな火種を付けていく。たった一言。在り様を呼ばれただけで堪らなくなってしまう。落ち着かない心地で、でなければこらえきれなくなって、ぬらりひょんは帯に差した煙管を取り上げた。口元へ運び、吸う。突然の愛撫に妻がびくりと肩を震わせる、そのさまに目を細め唇を重ねた。そのまま煙を流し込む。深く、深く。
「これがすべてだ」
 いや、これで足るとしてしまうのはお前にも礼を欠くか。やはり苦笑いで呟いて、とろんとした彼女の瞳を見つめる。互いの隻眼が交わる。ややあって囁く声が聞こえてきた。
「そうして甘やかしてくださるから、何度でも好きになってしまうのです。物のままではいられぬほどに」





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