英雄の死

 エイドリアン・ヴェイト、という人がいる。かつてはヒーローとしてオジマンディアスと名乗っていた男。世界一賢い男。そして人類を超越したのではと、密やかに噂される男。
 まだヒーローが憎まれる前の時代――キーン条令が発令される二年も前。人気の絶頂期に正体を明かしてヒーロー業を引退したというエピソードも、慧眼の表れではあるのだろう。そうして彼は今やアメリカ国内、いや、もしかしたら世界中でもっとも資産を持つ男になったのかもしれなかった。
 街はヴェイト社製品のロゴで溢れかえっている。衣服も、車も、化粧品も、玩具も。
 そんな世界を見渡して、わたしは時折妙な居心地の悪さを感じることがある。どこに居ても、彼の目に晒されているような――
 とはいえ、わたしはエイドリアン・ヴェイトという男のことが嫌いなわけではなかった。世の男からは羨望を、世の女からは憧憬を、一身に受けつつも、しかし彼は人と繋がりを持つことができない。彼の賢さや見通しの明るさはときに人を遠ざける。一方で、彼もまた人から遠ざかる。彼と他人との間には、埋めようもない溝が存在している。途方もない価値観の差。そもそも視えているものが違うのだと――そう言ってしまうことは酷く寂しいような気もするが、仕方がないことではあるのだろう。
 勿論、わたしも例外ではない。
 かつては同じヒーローとして組んでいたこともあるが、彼との実力は雲泥の差である。彼の研究する新エネルギーについての専門的知識も、彼どころか彼の集めた研究者にさえ及ばない。そのことは、分かっている。どうしたって彼と対等になれるわけではないことは、誰よりもよく分かっている。理解もしている。そう、理解と自覚。それこそが、わたしと彼とを繋ぎ止めるものだった。
 わたしは、自分の身の程を弁えてしまっている。
 自分が上に立つべき人間ではないことに、ヒーローとは名ばかりのそこらの矮小な人間となんら変わりがないことに――気付いてしまったのは、やはり彼と出会ってしまったからなのだとも思う。そうしたわたしの被支配者意識は、エイドリアン・ヴェイトという人間の持つ支配性に惹かれてやまない。精神的にも肉体的にも人類の最高峰である彼にしてみれば、さほどの意味を持たない格闘術や知性より、忠誠の方がいくらかは有意義だったのかもしれない。だからこそ、わたしは彼から雀の涙ほどの信頼を勝ち得たのだった。
 オジマンディアスと同時期に引退し、彼と同じように正体を世間に公表したわたしを、新しい事業に誘ってくれたのは――意外なことに、彼の方だ。ヴェイト社で彼の身辺警護をしないか、と。わざわざ必要のないポストを作ったのは(なにせ、彼は世界中の誰よりも強いのだ)元パートナーへの同情心からか。あるいはなにか他の意図があってのことなのか。どちらにせよ、わたしにしてみれば願ってもない話だった。
 結局、わたしはヒーローに向いていなかったのだ。
 わたしたちが引退をした頃、ヒーローはまだ慕われる時代だった。にもかかわらず、わたしは一般人に戻ることにまったく未練がなかった。ヒーローとして万人の役に立つことよりも、一人の人間としてエイドリアンの下に就く方がずっと魅力的なように思えた。
 正直なところ終わりの見えないヒーロー業にうんざりし始めていたというのも、その理由ではある。
 性善説なんてものを唱える輩もいるが、あれはまったくのでたらめだ。人は誰しも心の中に獣を飼っている。理性という名の檻に、知性という名の鍵をかけて閉じ込めてはいるが、どちらかが壊れればすぐに外へ出て暴れ出す。その仕組みは昔からずっと変わらないが――エイドリアンの話によれば――Dr.マンハッタンという怪物の誕生によって、獣はいっそう凶暴さを増したらしかった。
 未知の力を恐れるがゆえの正当な自衛行動。
 そう言い張ったところでなんの意味があろうか。世界という大きな盤面上で見れば、彼らは海へ向かう鼠の群れでしかない。人類は着実に破滅の道を歩んでいる。終末時計などというものを気にするあたり、少しは自覚もあるようだが。しかし、誰もがエイドリアンほど危機感を抱いてはいないのだ。
(虚しく思うことはないのだろうか。エイドリアンは)
 彼は滅びゆく世界を見捨てない。自らの生に執着がある――というわけではないだろう。古の王のように、自分なら世界をより善い方向へ導くことができる……と、そう本気で信じているのか。でなければ、この世界に情があるからか。はたまたいつかのように、できることもできないこともすべて“やってみたくなった”だけなのか。
 分からない。彼の考えることはいつだって複雑で、わたしには難解すぎる。

 とりとめもなく考えていると、不意に背後から声が聞こえてきた。

「溜息なんか吐いて、どうしたんだい?」
 振り返るまでもなく、相手がエイドリアンであることは分かっていたが。語尾をほんの少しだけ上げて僅かに首を傾げている彼に、わたしは苦笑交じりに告げる。
「別に。エイドリアンは物好きだなって」
「物好き?」
 訊き返してくる彼の声は、どこか楽しそうだった。形ばかりに問答の体を装ってくれてはいるが、こちらの考えていることなどお見通しというわけなのだろう。
「どうして自分から苦労を背負い込みたがるのか、わたしには分からないから」
 声を小さくして言えば、彼は少しだけ笑った。
「まあ、そうだね。苦労も、面倒事も、嫌いではないな」
「ふうん?」
 どうして。と、視線で問う。
 返ってきた答えは短かった。
「君がいるから――」
 予想もしなかった一言に呼吸が止まる。けれど、彼はすぐに続けてきた。
「なんて言えば、鉄面皮の君でも少しは表情を変えたりするのかなと思ったんだが」
「あ……?」
「君は、いつでも難しい顔をしてばかりだ」
 と、自分こそ表情も変えずにエイドリアンが呟く。
(冗談……冗談か……ていうか鉄面皮って……)
 がっくりと項垂れていると、そういえば――そう、彼はまた思い出したように口を開いた。
「わたしに言わせてみれば、君こそ物好きなように思える」
「ああ、うん。まあ、それは否定しないけど」
「だったら、どうして」
 これは本当に分からなかったようだ。
 心底不思議そうに訊いてくるエイドリアンに、わたしは曖昧に笑うしかなかった。
(それこそ、あなたがいるからなのだ――と、そう告白をしてしまうにはあまりにタイミングが悪すぎた)


END



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