こどくの恋

 纏わり付く熱を感じながら、体の曲線を指先でゆるりとなぞれば、酷くもどかしげな瞳が見つめてきた。じっくりと愛撫された体も、涙の溜まった瞳も、理性も、もうとろとろに溶かされてしまって、優しさだけでは物足りないようだった――少なくとも、光忠の隻眼にはそう見えた。埋め込んだ雄を緩やかに揺すって、ぬるい刺激を与えつつ、彼女の耳元で囁く。
「ねえ、主」
 声は届いているのだろうか。
(多分、届いていないんだろうね)
 胸の内で密やかに自問自答し、
「愛しているって、こういうことなのかな」
 呟く。案の定、答えはなく、聞こえてくるのは彼女らしからぬ甘い吐息と嬌声と、そして重なる下肢が奏でる卑猥な音だけだ。
 ほんの少しだけ寂しく思う反面で、彼女と繋がっていることに安堵する。そうだ。寂しく思う必要など、ないはずだった。ただ体に触れるより、手を繋ぐより、深く繋がっている。深く。深く。
「主」
 声が自分で思ったよりも、やはりほんの少しだけ切実で切なげな響きになってしまったことに顔をしかめ、光忠は目の前にある細い首に顔を埋めた。汗ばんだ首筋に舌を這わせ、せめて形だけでもと、やり場を失っている彼女の腕を自分の首に回すよう誘導しながら、ふと自分のこの酷く不敬な行為について初めて疑問を覚える。
(そういえば、どうしてこんなことをしようと思ったんだっけ)

 ◆◆◆

 燭台切光忠は考える。眼帯に隠されていない左目で、人の子と同じ形をした両手を見下ろしながら、思索する。およそ刀らしくない行為だ。同田貫正国あたりに言わせれば見た目がどうあれ刀に過ぎないということだろうし、あの不器用な友人――それも酷く人間じみた言い方ではあるが、物言わぬ鉄の塊だった頃からの付き合いを考えればそう呼んだところで構いはしないだろう――大倶利伽羅も、きっと眉をひそめてみせたに違いない。
(そんなことはない、かな。彼も意外と感傷的なところがあるから)
 大倶利伽羅に限らず、付喪神たちは多かれ少なかれ人間と同じ姿でもって顕現したと同時に生じた人間らしい感情を持て余しているように見えた。たとえば、へし切長谷部などはその筆頭に挙げられるだろう。以前の主を語るときは酷く愚痴っぽくなる。なにかと雅風流にこだわる歌仙兼定も、同じく。山姥切国広なども本来であれば感じる必要のない劣等感に苛まれているし、あとは――加州清光と大和守安定などにも、どこか危うげなところがある。ああ、三条派の連中や太郎太刀などは流石に落ち着いているか。
 一人、と言っていいものか。それとも一振りと数えるべきか。
 因果の末、共に過ごすことになった付喪神たちの顔を一つ一つ思い浮かべながら。光忠は、いつの間にか額を伝って頬を流れていた汗の筋に気付いて、手の甲で拭った。
 日差しが強い。
 隻眼を上に向ける。青く透き通った空には雲の一つもなく、黄色い太陽が剥き出しに畑を照らしていた。広さはおよそ一反を三分割して、いくつかの作物を育てている。最低限の物資は政府から支給されるが、なにかと経費がかさむのでせめて食糧くらい足りない分は各自まかなえということなのだろう。幸いにして、人手は十分にある――もっとも主は、戦から雑事まですべて付喪神に任せなければならない現状を恥じているようではあるが。
 様々なことを考えながら、光忠は近くのトマトに手を伸ばした。
 畑には朝に水をまいたばかりだが、日差しが強すぎるせいか葉は心なしか萎えているように見える。葉の下には小さな実が付いていた。黒の革手袋を外して、手で触れてみる。青くて、まだ堅い。それでも内側に水を含んでいるような、その感触を不思議に思いながら、ざらりとした茎を撫でた。根本に近い葉の何枚かは虫に食われているが、それは思いの外しっかりと地に根付いている。人外の存在に世話をされたからといって、枯れてしまうものでもない。
 そのまま腰をかがめ、手のひらで土をすくう。
 昼過ぎに水をまいたためか、やや湿っている。日に日に大きくなっていく野菜も、微生物の気配を感じる土塊も、人の姿で触れるなにもかもが新鮮だった。元を辿れば鉄の塊にすぎない自分が、そうして生らしきものを感じるというのも奇妙なことのように思えた。
 すんすんと鼻を鳴らして土と水のにおいを嗅いでいると、不意に背後から声が聞こえてきた。
「なにをしているの、燭台切」
 男の声ではない。やや幼さを帯びた短刀たちの声でもない。耳に心地のいい落ち着いた女の声に、光忠は振り返った。
「主」
 時の政府から派遣された女性。審神者という肩書きを名前代わりにする人。彼女が最初に選んだ刀であるという歌仙兼定ならば名を知っているのかもしれないが、どうにも訊きにくい雰囲気がある。
「いや、なにをしているってこともないよ。ただ、今日は暑いから。夕方にもう一度くらい水をあげておいた方がいいかなって」
 答えながら、光忠は少し表情を苦くした。
(燭台切、だって)
 青銅の燭台を切ったあの逸話を恥じているというわけでもないが、それにしても他人行儀がすぎやしないだろうか。
(長谷部くんのことは、長谷部と呼ぶんだよね。主は)
 とはいえ長谷部のように呼び方まで指定するというのも、なんとなく恰好が付かない。迷っていると、彼女が先に口を開いた。
「そうだね。確かに今日は暑い。燭台切も、まだ外にいるようなら帽子でもかぶった方がいいんじゃないかな」
「はは。主は面白いことを言うね」
「冗談を言ったつもりはないんだけど。元は刀だって言っても、今は人間と大差ないわけだから。熱中症にならないとは限らない」
 冗談かと思いきや、大真面目な顔でそんなことを言う。
 光忠は浮かべていた笑みを引っ込めて、戸惑いがちに彼女を見た。
「熱中症、ね」
 両手を軽く合わせる仕草で、手のひらに盛っていた土を払う。
「主は僕らのこと、人間扱いしすぎているんじゃないかな」
 たしなめると、彼女は肩を竦めてみせた。
「それは歌仙にも言われたけど……」
「けど?」
「君らの場合は、人間らしくない部分を探す方が難しいから」
「でも、政府からの書類上は備品扱いだよね」
 幸いにしてまだ破壊された刀剣はいないが、たとえば歴史改変者や検非違使との戦いで折れたときには始末書などに「燭台切光忠×一……本能寺で検非違使により破壊のため破棄」などと書かれるのだろう。それこそ冗談めかしたつもりだったが、彼女は気に入らなかったらしい。思いきり顔をしかめてみせた。
「正直言って、わたしは好きじゃないんだ。あの書き方」
「仕事に私情を持ち込むのはよくないよ、主」
「……燭台切も、そうやって物分かりのいいことを言うんだね。怒り甲斐がないというか、なんだかなあ」
「まあ、そう拗ねないでよ。そうやって唇を尖らせても可愛いけど、僕は主の笑った顔の方が好きだな」
 つんと尖った唇の先に人差し指を押しあてる。それで少しは照れてくれるかと思いきや、彼女はますます苦い顔をした。
「その言い方。人間そのものって感じじゃないか」
「それはまあ、人の傍にいた時間も長かったから」
「人間の姿で、人間のような言動をして、それで人間扱いはするなって言うんだから。やりにくいことこの上ないよ」
 多少、遣り切れなさそうな声で呟くと彼女は光忠から視線を外した。拗ねてしまったのだろうか。いいや、そういったタイプでもないなと思いながら彼女の視線を追う。視線の先には、本丸の方から歩いてくる男の姿があった。光忠と同じく洋装だが軍服の類ではなく、僧衣に似ている。その顔は生真面目を通り越して、むしろ神経質に見えるほどだった。
 そんな彼に、審神者は気安く片手を振ってみせた。
「長谷部!」
 それを見た長谷部――へし切長谷部の表情が、ほんの少し弛む。唇が動いて、あるじ、と彼女を呼んだ。聞いている方が胸焼けしてしまいそうな、酷く甘い声で。
「ここにいらっしゃったんですか、主」
 それからちらりと光忠を一瞥して、
「燭台切と、なにを?」
 あからさまに面白くなさそうに訊ねた。彼女が答える。
「なんてことはない、ただの世間話をしていただけだよ」
「世間話ですか」
「そう、世間話。なにをしていたの、とか。今日は暑いけど調子はどう、とか。そんな類のね。長谷部は、調子はどう?」
 にこにこと笑いながら長谷部を見つめる彼女に、光忠はこっそり苦笑を零した。
(それを、長谷部くんに訊くんだ)
 融通の利かない長谷部こそ、怪訝な顔をするに違いない――と、そう思ったのだが。予想に反して、長谷部は器用に答えてみせた。
「好調ですよ。ですから主、なんでも俺に申し付けてください」
「そう? だったら、一つ仕事を頼もうかな」
「一つでも二つでも三つでも……主の頼みであれば」
 大仰な長谷部に、彼女が笑う。
「流石に、そんなにたくさんは思い付かないよ。とりあえずは一つ。小夜の買い物に付き合ってあげてほしいんだ。宋三は遠征中だから」
 一人で行かせたところで問題はないはずだが、やはり彼女は小夜左文字のことも見たまま子供扱いしているのだろう。それに対してなにか言うわけでもなく、長谷部は素直に顎を引いて頷いた。
 主命であれば疑問を挟む余地もないのか、それとも不調もなにもないはずの体で敢えて好調と答えてみせたように、すっかり人間扱いに慣れてしまったのか。分かりかねて、光忠は首をひねった。
「中へ戻りましょう。強すぎる日差しは体に障ります」
 言いながら、まるで当たり前のように手を差し出す。光忠とは対照的に白の手袋をはめた、その手――見つめながら彼女は少し躊躇うようなそぶりを見せたが、せっかくの厚意を無碍にするのも悪いかと考えたようだった。ぎこちなく手を重ね、
「分かった。燭台切も一度、中へ入ったらどうかな」
 振り返ってくる。
「――そうだね。僕も、一緒に戻るよ」
 どこかばつの悪そうな彼女の顔と、繋がった二人の手を交互に眺めて頷きながら。感じたのは、独占欲と忠誠心の塊のような長谷部への呆れではなかった。隻眼には二人の姿がはっきり映っていたというのに、何故か、まるでたった一人その場に取り残されたような錯覚を起こしたのだった。
「主の前で、なにをぼんやりしているんだ。燭台切」
 長谷部の声で、我に返る。
「あ、うん。ごめん」
 光忠は胸を過ぎっていった感情の正体を図りかねて、一人で首を傾げた。

 ◆◆◆

 ――刀の身で包丁を扱うというのも、なんだかな。
 そう思いつつも、光忠は料理が嫌いではない。
 以前の主が料理を趣味にしていたというのも、その理由の一つではあるのかもしれない。魚の腹にするりと刃を入れ、切り開き、中の内臓を取り出して丁寧に洗う。粘膜の感触にやや顔をしかめつつ、三枚に下ろしていく。現在本丸に顕現している刀剣は、およそ三十人。遠征のたびに誰かしらを拾ってくるため、常に正しく数を把握していることは難しい。常に本丸で采配を振るっている審神者ならともかく付喪神同士は、遠征や戦ですれ違いになることも多い。
 それはともかく――人数が増えれば、必要な食事の量も増える。
 台所に立つのは光忠や歌仙兼定、堀川国広のような比較的器用で几帳面な者と、彼らに料理を教えた審神者だけである。
 料理の腕は個人の性格に左右されるところが大きいため、畑番や馬番のようにローテーション制にするわけにもいかないのだろう。はじめは箸の上げ下げにすら難儀した付喪神たちも、食事に慣れた今は味の良し悪しまで分かるようになった――疲労回復を図ろうと手を伸ばした先にあったものが、たとえば塩の塊のような握り飯だったら士気も下がろうというものだ。
 また一匹。氷の入った桶から取り出して、鱗を削ぐ。と、
「器用なものだね」
 後ろからひょいと、歌仙が覗き込んできた。
「一通りは主に教えてもらったから」
「短刀たちは、僕より君の味付けを好んでいるようだよ」
「それほど変わらないと思うけど。まあ、美味しいと言ってもらえるのは嬉しいかな」
 そんな雑談も、人の姿であればこそだろう。
 話しながら歌仙もまな板の一枚と包丁を取り出して、慣れた手つきで味噌汁の具材を切っていく。煮出しただしの香りが漂う鍋の中に油揚げを、それからしばらくしてほうれん草を入れた。彼が手早く味噌汁を作っている間に、光忠も下ろした魚を刺身にして器に盛りつける。二つ並んだ竈のもう一方に掛けた鍋も、そろそろ引き上げどきだろう。落としぶたを取って、中身を確かめる。半日ほどかけて仕込んだ大根と鶏肉の煮物だ。
(うん、我ながら完璧だね)
 内心自画自賛しつつ、こちらも器に盛る。歌仙の方も火を止めて、もう鍋の中に味噌を溶かし入れていた。量があるためか何度か小皿に取って味見しながら、味を調えている。
「燭台切。君は、こうしていると自分が人間でないことを忘れてしまいそうにならないかい?」
 木べらで鍋をかき混ぜながら、不意に歌仙が訊ねてきた。
「まあ、そうだね。時々は」
「時々?」
「今はまだ、新鮮さの方が大きいかな。この手で生きているものに触れることや、こうして料理を作る自分を不思議に思う。それに長谷部くんのような、すっかり人間じみた振る舞いに慣れた仲間を見て戸惑う気持ちもある」
「彼は特殊じゃないかな」
 歌仙が苦笑する。
「彼女が甘やかすから」
「彼女って、主のこと?」
 訊き返す光忠に、彼は大きく頷いた。
「そう。彼女、押しに弱いだろう?」
「いや、知らないけど」
「弱いんだよ。というより、優しすぎるのかな。女性らしい気配りの細やかさは結構だと思うけど、なにかあるたびに胃を痛めて。まったく、中間管理職に向いていないったら」
 優雅さを心がけてか日頃から感情の起伏が少ない歌仙がそんな愚痴をこぼしたことに、光忠は少しだけ驚いた。まるで保護者か、なにかのようだ。なにか。そこにぴたりと当てはまる言葉を胸の内に探しながら、歌仙の愚痴に耳を傾ける。
「最初はよかったんだよ。まだ。小夜のような短刀が相手なら微笑ましく見えたからね。親戚の子供でも相手にするように話を聞いてやってさ、おかげで小夜も早くから彼女に懐いていたし。山姥切国広に関しても、まあ許容範囲内だ。自己評価とともに士気が上がるのなら、それに越したことはない。でも、長谷部はね。あれは、駄目だろう。雅じゃないよ。なにがって、なにもかもさ。彼女のことならなにもかも、自分が一番知っているような顔をして」
 鼻の頭に皺を寄せて、彼は小さく唸った。
「忠義。忠誠。ただそれだけのことなら僕だってなにも言わないさ。そうとは思えないからこうやって憂えているわけで――しかも彼女は主と慕われて安堵するばかりで、事の本質にまったく気付いていないときている。僕が再三、過度な人間扱いはよくないと言っているのに……」
 瞬間――力の込め過ぎか、木べらがみしりと音を立てて軋んだ。それで我に返ったのか、歌仙は澄ました顔で流しに木べらを放り込み、代わりにステンレス製のレードルを手に取った。
 彼の豹変具合にやや気後れしながら、光忠は訊ねた。
「その、訊きにくいんだけど」
「なんだい?」
「歌仙くんも、主のことが好きなのかな?」
「僕が?」
 予想外の言葉を耳にしたとでも言いたげに、歌仙は目を丸くしている。それから彼は、こちらの言葉選びのまずさをたしなめるように眉をひそめた。
「好きだなんて雅じゃないよ。飾らなすぎる。直裁は悪だ」
「そうかな」
 まあ、そうかもしれない。確かに恰好良い言い方ではなかったかなと、光忠も曖昧に頷いた。そうとも、と歌仙が大きく首肯する。
「僕はただ……」
 そこで一度言葉を切ったのは、人の気配を感じたからだろう。
 この本丸に存在する唯一の人間。話題の中心人物――
「主」
 台所の入り口を振り返った歌仙が、やはり何事もなかった顔で審神者を呼んだ。こちらの会話を聞いてはいなかったのだろう、彼女の反応もまたいつもどおりだった。或いは手伝いが遅れたことを、気にしてはいるのかもしれない。濃い蒼色のエプロンを背中で結ぼうとしているが、焦ってうまくいかないようだ。
 歌仙はそんな彼女を見ると、まったく仕方がないなと苦笑を浮かべてレードルを置いた。
「ほら、主。こっちへおいで。僕が結んであげるから」
 手招きする。彼女も慣れているのか、素直に歌仙の傍へと寄っていった。拳一つ分ほどに寄り添った距離で、二人が向き合う。
「後ろを向いて」
「ん」
 目の前でくるりと背中を向けてみせた、彼女の腰のあたりで丁寧にちょうちょ結びを作る。本人の申告では雅ではない好意――下心などないという話だったが、「できたよ」と背中に触れる手は奇妙なほどに優しい。まるで保護者か――
「ああ、味噌汁ができたから味見をしてもらえないかな」
「いいけど、味見をしなくても歌仙の料理は美味しいよ」
「全幅の信頼を置いてもらえるのは光栄だ。その期待に、今日も応えられるといいのだけれど」
 鍋の中からレードルで味噌汁を少しすくって小皿に移すと、歌仙はそれを彼女に渡した。熱いから気を付けてという彼の言葉に、彼女が唇を尖らせてふーふーと息を吹きかける。その様子を歌仙は体が触れあうほど近くで寄り添って、にこにこ眺めている。
(そうか)
 そんな光景を眺めながら、光忠は遅れて言葉を見つけた。
(恋人、みたいだ)
 思わず隻眼を細め、血の通った人間じみた彼らのやり取りをじっと見つめる。自分でも恰好悪いと呆れてしまわないではなかったものの、見栄より羨望が勝っていた。羨望というより、欲求か。
 薄く色づいた唇が、小皿の縁を軽く食む。
「どう?」
「うん、美味しいよ。わたし好み」
 小皿を返す彼女の指先が、歌仙の指に触れる。どちらも特に気に留めた様子はなかったが、光忠はその瞬間に自分の心臓が忙しなく音を立てていることに気付いた。慌てて、二人から顔を背ける。
(ああ、ずるいな)
 視線を床に伏せながら、こっそり自分の両手を見下ろす。人の姿で顕現して、様々な生きものに触れた。自然に触れた。料理もできるし、楽器もほんの少しだけ触らせてもらったことはあった。存外に器用な二つの手で、人間の営み一通りは経験したと思っていたが。
(あれだけは、知らない)
 いつもなにかに、一方的に触れるばかりだ。刀でしかなかった頃、一方的に人の手で握られてきたように。立場が入れ替わっただけで、本質はなにも変わらない。そのことに気付くと、今まで新鮮に感じてきた新しい世界が酷く色褪せて見える。
(もしも……)
 もしも歌仙のように彼女にこの手で触れたのなら、彼女が触れてくれたのなら、どんな心地がするのだろう。それはもしかしたら馬に触れるより、植物に触れるより、土塊をすくって生きものの気配を感じるより、料理をするより、ずっと幸せなことなのかもしれない。幸せ。それは刀の身にはおよそ不必要な概念に違いなかったが。
「どうしたの、燭台切」
 気付いた彼女が歌仙から離れて、覗き込んでくる。同胞たちの、刃のように冴え冴えとした目とは、違う。濃い朽葉色の瞳を何故だか眩しいもののように感じてしまって、光忠は何度か目を瞬かせた。
「なんでもないよ。ただ」
 自分がまるで別の生きものになってしまったように感じただけだ。
(生きもの――)
 はたと我に返り、光忠は言葉を呑み込んだ。
「ただ、みんなお腹を空かせて待っているだろうなって」
 慌てて誤魔化し、机の上から大皿を二つ取り上げる。胸の内を見透かそうとしてくる歌仙の視線を振り払うと、光忠は居たたまれない心地で台所から逃げ出した。
「ちょっと、燭台切?」
 なにがなんだか分かっていない様子で引き留める彼女の声も振り切って、けれど歌仙の愚痴ははっきりと聞こえてくるようだった。
 ――ああ、君もか。まったく、どいつもこいつも。
 つまりは、
(もうとっくに、自分が人間じゃないことなんて忘れてた)
 そういうことだろう。
 人ではないと言いながら、人の体で見るもの、触るもののすべてを楽しんでいた自覚は確かにあった。新鮮に感じていたつもりで人の感覚にすっかり慣らされて、人同士のような交流を羨んでしまった。そんな自分が酷く恰好悪く思えて、光忠は軽く唇を噛んだ。
 台所からすぐ、食堂にはもう八割ほどの仲間が集まってきている。粟田口派の者たちは率先して机を拭いたり、箸を準備したりと食事の支度を始めていた。各々の席に湯飲みを並べていく秋田藤四郎の邪魔にならないよう避けながら大皿を二つ置くと、気付いた薬研藤四郎が「残りを運ぶぞ」と、厚藤四郎と乱藤四郎を伴って台所へ向かった。長兄であるはずの一期一振の姿は、珍しく近くにない。
 ――そういえば、遠征中だと言っていたか。
(僕も、いっそ遠征に出たいな)
 合戦場でもいい。本丸にいなければ余計なことを考えずに済むし、戦場に立てば刀の本分を思い出すこともできる。
 そんなことを考えつつも手だけは動かして、食卓を整える。時間が経つうちに他の刀剣たちも集まって、あっという間に料理は運び込まれていた。いつの間にか食堂へ移動してきていた審神者も、もう飯櫃から各人の飯をよそっている。最後に味噌汁を運んできた歌仙が食卓に着くのを確認すると、彼女が一つ頷いて両手を合わせた。いただきますという合図を、短刀たちが元気よく復唱する。
 光忠が隻眼でちらりと様子を窺うと、彼女は食事を前に手を付けず、仲間たちの食事風景を感慨深げに眺めていた。煮物に手を伸ばそうと苦心しているらしい小夜に気付いて、取り皿に取り分けてやる。人間の子供でも見守るような、そんな優しげな瞳だが――
「どうしたの、燭台切」
 こちらの視線に気付いたらしい彼女が、ふいに顔を向けてきた。目が合う。そこに親しみを見つけてしまって、そわそわしながら光忠は答えた。
「いや、その……あ、お醤油。いる?」
 我ながら、なんて間抜けなと思いつつ。彼女の小皿に醤油がないことに気付いて、すぐ横にあった醤油差しを差し出す。
「ああ、ありがとう」
 頷く彼女の傍まで持っていこうかと迷ったが、手を伸ばせば届きそうな距離ではあった。わざわざ立つのもかえって気を遣わせるかと、手を伸ばしてくる彼女にこちらも手を伸ばして醤油差しを渡す。と、彼女に触れる直前で、すぐ横から伸びてきた手がそれをさらっていった。「ぼくがわたしてあげますよ」と無邪気に言ったのは、今剣だ。
「はい、あるじさま!」
「今剣も、ありがとう」
 今剣から醤油差しを受け取った彼女は、少年の姿をしたこの付喪神の頭をごくごく自然に撫でてやった。
(これは……美味しいところを持ってかれちゃったかな)
 ひくり、と目の下が引きつる。
 向かいに座っていた大倶利伽羅が小声で「光忠」と呼んで、指先で彼自身の右手を叩いた。やり場を失った手が宙でそのままになっていたことに気付いて、慌てて引っ込める。
(やっぱり、どうにも恰好が付かない)
 咳払いで決まりの悪さを誤魔化し、光忠は彼女に触れられることのなかった右手をそっと見下ろした。

 食事が終わり、空になった食器が台所へと運ばれていく。この日の皿洗いは岩融と御手杵が担当だった。綺麗に片付いた食堂の机には、今度は数枚の地図と予定表が広がっている。
「さて、明日の予定を話そうか」
 刀剣たちの名前が書かれたマグネットを手の中で弄びながら、審神者が言った。この場にいない一期一振や蛍丸のものは、すでに表にある遠征の項目に貼り付けられていた。
「彼らはいつ帰ってくるんだい?」
 歌仙が訊ねる。彼女が答えた。
「明日の夜だよ」
「では、合戦場へ向かわせるのは二組ぐらいに留めておいた方がいいね。最近は検非違使なんて雅ではない輩もうろつくようになったから、いざというときのために予備戦力は残しておきたいところだ」
「うん。だから、厚樫山へ――鶴丸、山伏、獅子王、鳴狐、陸奥守」
 鶴丸から順に目配せしていく。彼らはそれぞれ、気安く頷いた。
「大将は歌仙。任せていいかな」
「承知したよ」
 にこりと微笑みつつ、雅を至上とする付喪神が優雅に頷く。その隣では鳴狐の狐が名前の挙がった刀剣たちのマグネットを咥え、合戦場一の項目にぺたりぺたりと貼り付けていた。それを横目で確認しながら、彼女は二枚目の地図を指でつまみ上げた。
「で、池田屋へ。薬研、小夜、五虎退、堀川、今剣……」
「そちらの大将は勿論、俺でしょう?」
 自負する瞳で訊ねる長谷部に、彼女も顎を引いて答える。
「まだ練度が十分ではないから、みんなの様子を見ながらお願い」
「期待どおりの成果を上げてみせますよ」
「それから……」
 本丸での内番を確認し、演練組と本丸周辺の見回りなどを順番に割り振って――彼女は最後に、光忠を呼んだ。
「燭台切には近侍の代わりをしてほしいんだけど、いいかな」
「僕?」
 思わず、きょとんとしてしまう。
「うん。そろそろ政府宛ての月報をまとめて予算申請もしないといけないから、手伝ってほしいんだ。燭台切なら比較的古株で本丸の勝手も分かっているし、周りのこともよく見てる。わたしの報告で足りない点がないかチェックしてもらえると、ありがたいよ」
 そういう彼女こそ、よく見ている――予想外に評価されてしまって、光忠は少しだけ驚いた。動揺を悟られないよう話題を変える。
「そういえば、普段は歌仙くんか長谷部くんのどちらかを本丸に残すのに、両方合戦場へ出してしまうなんて珍しいね」
「近々戦場が拡大するって話だし、多少はね。今は遠征に安定した戦力を送ると、他が少し手薄になってしまうような状況だから。二人にカバーしてもらって、全体の練度を上げていかないと」
 せめて本丸に審神者がもう一人いればいいのだろうが、政府側の人員が足りないことは今に始まったことではない。管狐のこんのすけはほとんど連絡要員のようなもので、頭数には入らない。そもそも、政府は審神者への適正者を探すところから難儀している有様だ。
「なるほど。君は、二人を信頼しているんだね」
「みんなのことを信頼しているよ」
 即答で、彼女はそう答えてきたが。
「さて、話も一通り済んだようだし僕は明日の準備をするよ」
 歌仙が立ち上がり、長谷部が短刀たちに向かって両手を打つ。
「ああ。ほら、解散だ。短刀たちから順に、風呂へ入ってしまえ」
 そんな彼らの足許に誉の桜がひらりと落ちていることに気付いて、光忠は密かに苦虫を噛みつぶした顔をした。一枚拾い上げ、そっと溜息を零す――この桜を舞わせているとき、彼らはどんな気持ちなのだろう。自分はまだ、それを知らない。
「燭台切?」
 不思議そうに訊ねてくる彼女に、
「この後、少し道場を使わせてもらってもいいかな。僕は今日も内番だったし、明日も合戦場には出ないから」
「いいよ。一人?」
「いや、倶利ちゃんに付き合ってもらうつもり」
 隻眼を向けると大倶利伽羅は「なんで俺が」と不服そうな顔をしたが、光忠が両手を合わせれば不承不承といった様子で頷いた。
「かまわない」
「ありがと」
 友人――人ではないが――に礼を言い、彼女の横を通り過ぎる。

 ◆◆◆

「お前がなにをしたいのか、俺にはまったく分からない」
 静まり返った道場に、大倶利伽羅の苦い呟きがぽつりと落ちる。
「僕もだよ」
 と、光忠は溜息混じりに答えた。手合わせを初めて早々に手から叩き落とされた木刀が、床の上に転がっている。敵との戦いだったら、軽傷といったところか。ほとんど意味のない鍛錬に付き合わされた大倶利伽羅は、面白くなさそうに木刀を手の中で一回転させた。
「……仕合う気がないなら、俺は戻るが?」
「そんなつもりじゃなくて、倶利ちゃんと手合わせでもすれば気も紛れると思ったんだけどね――」
「ただの暇つぶしに付き合わされるのは、迷惑だ」
 大倶利伽羅はとりつく島もない。
「いや、暇つぶしってわけでもなくて。冷たいこと言わないでよ」
「人生相談なら他を当たれ」
「君の口から〈人生〉なんて単語を聞くの、変な感じがするな」
 揚げ足を取ったつもりもなく、ただなんとはなしに引っかかったことを口に出してみただけだったが。大倶利伽羅自身にも思うところはあったのかもしれない。顔をしかめ、舌打ちをした。
「この姿になってから面倒なことばかりだ」
「僕もそう思うよ」
「そうか? お前は国永と一緒で、楽しんでいるように見えた」
「それはまあ、いろいろと新鮮ではあるけど。なんて言えばいいのかな。一つなにかに触れるたび、奇妙な欲に駆られるんだよね。あれもしたい、これもしたい、あれも欲しい、これも欲しい」
 言葉にすると、いっそうそれを実感する。
「まるで人間だな」
 と、大倶利伽羅が肩を竦めた。
「そうだね。自分のことながら少し怖い」
「なにが」
「そうやって、際限なくなっていくのがさ。駄目だって思うんだ。でも、一度知ってしまったら手にとってみたくてたまらなくなる。僕以外の誰かがそれを享受していることに気付いてしまうと、僕だって同じように求めていいんじゃないかって――」
 一つ。胸の内に渦巻いていた思いを形にすると、自分でも思いも寄らなかった言葉となって次から次へと溢れ出た。大人しく話を聞いていた大倶利伽羅が、怪訝な顔で制止してくる。
「なんの話をしているんだ? お前は」
「なにもかも、だよ」
 なにもかもの話をしているのだ。そう言ってみたところで、彼には理解できなかったのだろう。
「性急に馴染もうとするから、そういうことになる」
 ゆるくかぶりを振りつつ、大倶利伽羅が言った。
「馴れ合うなとは言わないが、妙な気は起こすなよ」
「妙な気って? たとえば」
「ミイラ取りがミイラになる、だとか。そういうことだ」
 どこか憂いを帯びたような彼の眼差しに、光忠は小さく笑った。
「ああ――」
 ――倶利ちゃんが心配してるのは、そっちか。
 と、これは胸の内でのみ呟いて。
「大丈夫だよ。さすがにね、彼らのようになりたいとは思わない」
 或いは歴史改変の誘惑に堕ちた仲間たちなどより、よっぽど悪いのかもしれないが。断言する光忠に大倶利伽羅は「そうか」と、やはり素っ気ない。それから彼は床の上に転がった木刀を拾い上げ、壁際の刀架に掛けた。
「あれ、もう終わりにするの?」
「お前が上の空だからだ、光忠」
「そっか。まあ、そうだよね。掃除は僕がしておくから、先に部屋へ戻っていいよ」
 壁に立てかけてあったモップを手に取り、告げる。大倶利伽羅はなにか言いたげな顔をしたが、ぴったりな言葉が見つからなかったのだろう。不満げな顔で短く頷いて、道場から出て行った。
 廊下の向こうに彼の気配が消えてしまうのを待って、光忠は一人嘆息する。彼に言った言葉が、自分でも気に掛かっていた。
 ――際限なくなる、か。
 我ながら、現状を的確に表した言葉だ。鳥の鳴き声の一つも聞こえない夜の静寂に、急に一人を意識する。奇妙な焦燥感に駆られ、心なしか急き気味に掃除を済ませてしまうと、光忠は無人の道場を後にした。足早に廊下を渡り、殿舎の明かりを目指す。丁度、残りの短刀たちが風呂へ向かうところだったらしい。騒々しい足音と、からかい合う声が聞こえてくる。
 背後の静寂とは対照的な賑やかさに内心胸をなで下ろしながら、光忠はそのままふらりと台所へ向かった。流石にもう片付けは済んだのか、岩融と御手杵の姿はない。
 食器棚から湯飲みを一つ取り出し、薬缶から白湯を注ぐ。一杯飲み干した頃に、ふらりと歌仙が入ってきた。
「やあ、燭台切。まだ道場にいるのかと思ったよ」
「そのつもりだったんだけど。どうにも集中できなくて、倶利ちゃんにふられちゃってね。歌仙くんは? 明日の支度は終わったの?」
 歌仙の方は水を飲みに来たというわけでもなさそうだ。彼の持った丸い盆の上には、一人分の湯飲みと薬包が載せられている。
「ああ。まあ、概ね」
 頷く彼の手元に、光忠は隻眼を向けた。
「それは?」
「胃薬」
「君が飲むの?」
「まさか」
 歌仙は優雅に微笑みながら答えてきた。
「主だよ。予算について、また上とやり合ったらしくてね。彼女ときたら胃痛持ちのくせに変なところで強気に出るから。ああ、強気というよりは僕らのために譲らないのかもしれないけれど。つくづく、こういった仕事に向いていない人だと思うよ」
 そう零してみせつつも、彼は楽しそうだった。
(いや、違うな。幸せそう、なのかな)
 まるで長年の知己のように主のことを語る歌仙に、光忠はどこか面白くない心地で相槌を打った。彼は薬を飲ませてやりながら、いつものように主に触れたのだろうか。或いは触れられたのだろうか――大倶利伽羅に語った例の衝動、際限ない欲がまた頭をもたげる。
 それが顔に出てしまう前に、燭台切は努めて明るい声で訊ねた。
「主は、いつも決まった時間に薬を飲むの?」
「いいや。なんでそんなことを聞くのかな」
「明日は歌仙くんの代わりに、僕が近侍を務めさせてもらうから」
 答えると、歌仙は思い出したようにああと頷いた。
「そういえば、そうだったね。薬なら彼女の部屋にもあるし、僕の部屋の薬棚にも予備がある。必要そうだったら勝手に持っていってくれていいよ」
 悪さのできる薬でもないしね、と彼は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。曖昧に微笑み返して礼を言い、彼と別れる。
(悪さのできる薬、か)
 歌仙の冗談――でなければ釘を刺したか、だが――を思い返しながら、光忠は部屋に戻った。かつて伊達政宗の許にあった頃のよしみで大倶利伽羅と鶴丸国永とは同室だが、二人の姿はない。机の上には大倶利伽羅の神経質そうな字で、書き置きが残されていた。曰く明日の出陣予定に含まれている鶴丸の刀装が一つ欠けていることに気付いたので、主のところへもらいに行く。鶴丸一人を行かせて彼女に手間を掛けさせるのも忍びないため、仕方なく自分も付き添うということだった。
 口では馴れ合いを嫌いつつ、やはり存外に面倒見のいい男である。
 意図せず一人になってしまった部屋の中で、光忠はあたりに人の気配がないことを確認するとそっと机の引き出しを開けた。
 悪さのできる薬ではないと、歌仙は言ったが。皮肉にも彼の言葉で、自分がそれを持っていたと思い出してしまったのだった。まだ顕現したばかりの頃、珍しがるままに行商人から買ったがらくた――小さな万華鏡だとか、香水瓶だとかとともにぞんざいに詰め込まれていた小瓶を手にとって眺める。
 中に煌めいているのは、琥珀色の液体だった。美しい。けれどそれは確かに毒の一種だった。気性の荒い特別な種類の蜂、中でも働き蜂である雄だけをまずは瓶の中へ閉じ込め、最後の一匹まで殺し合わせ、残った一匹も女王蜂に食わせた――いわゆる蠱術の法の一つで作られた毒を、蜂蜜と混ぜ合わせたものだという。相手を死に至らしめる効果はない。代わりに雄を傅かせる女王蜂の分泌物が、ある種の催淫効果をもたらす。と、そんな話を聞いた記憶がある。
 人間とは不思議なことをするものだと、そのときは好奇心と興味半分に分けてもらった。
(人間同士が情事に使う薬、か)
 情事。人間同士が肌を重ねるその行為のことを、光忠は知識として知っている。まだ物を言えない刀だった頃に、それを目にしたこともある。情で繋がり快楽に身を委ねるという点で、人間の情事は彼らが浅ましいという獣よりよっぽど合理的でないと感じたものだ。
 小瓶に触れる――それを使うことの後ろめたさは、勿論ある。
 だが、一方でどうしようもない、切実な欲求が胸を焦がし続けているのも事実だった。たとえば長谷部が恭しく彼女の手を取るような。たとえば歌仙が甲斐甲斐しく世話を焼いてやるような。たとえば今剣や小夜などが当たり前のように彼女に撫でられるような――
(僕も、と望むのは不敬なのかな)
 自問自答してみても、結局答えは出なかった。

 ◆◆◆
 
 翌日。
 長谷部と歌仙はそれぞれの隊を率いて合戦場へと出て行った。早朝から出陣組の弁当作りを手伝っていた彼女も、簡単な朝食を終えると早々に部屋へ引っ込んだ。
 口喧嘩をしつつも仲良く皿を洗っている加州清光と大和守安定に後を任せ、光忠は彼女の部屋へ足を向けた。本丸の中でも付喪神たちの部屋から少し離れた中奥に、彼女の自室がある。そのすぐ隣が控えの間で、こちらは主に近侍の歌仙が使っている。彼が不在にしている今は、座敷に一人分の気配しかない。
「主、失礼するよ」
 声を掛け、襖を開ける。古めかしい書院造りに似合わず、文机の上にはノートパソコンが開かれていた。政府への報告を打ち込んでいたらしい彼女が顔を上げ、振り返ってくる。
「ああ、燭台切。今日はよろしく」
「うん、よろしく。で、僕はなにをすればいい?」
 彼女の近くに腰を下ろし、訊ねる。
「そこにある日報から、月ごとの使用資材の数値を出してくれないかな。わたしは合戦の戦果をまとめてしまうから」
「了解」
 頷いて、光忠は畳の上に転がったファイルを手に取った。分厚く、ずしりと重い。中を見れば、彼女が審神者に就任した日から今日に至るまでの記録が日付順に挟まれていた。光忠が顕現した日のものもある。歌仙や長谷部に遅れること二週間。それでも太刀の中では比較的早かった――勝手が分からず、打刀以上はなかなか顕現しなかったらしい。そういった事情から光忠が本丸に現れたときにはすでに初期から顕現していた刀剣たちとは、熟練度に大分差が付いていた。同じ頃に顕現した大倶利伽羅とともに演習を重ね、どうにか実戦に耐えうるまでこぎ着けたのは遠い昔の話ではないが。それでも懐かしさを覚えながら彼女に言われたとおりの数値を抜き出していると、不意に指先に触れたものがあった。
 長方形の紙だ。紫色と桃色の可憐な花が押されている。手が止まったことを不審に思ったのか、彼女が横目でこちらを見てあっと声を上げた。
「そんなところにあったんだ。探していたんだよ」
 細い指先が、押し花の栞をさらっていった。
「それ、歌仙くんが?」
 確信に近いものを感じつつ訊ねる。彼女はあっさり頷いた。
「そう。初めて頼んだ遠征の途中で、綺麗な花を見つけたからって」
 言いながら、それを引き出しへとしまう。彼女の横顔を窺うと、その唇は胃を痛めるような戦いの最中にあって猶、幸せそうに弧を描いていた。
「主は、歌仙くんのことが好きなの?」
 ああ、またまずい訊き方をしてしまった。やはり昨日、歌仙に直裁すぎると言われたばかりの言い方で、光忠は気付けば彼女に訊ねていた。俯いていた彼女が顔を上げ、目を丸くして驚いたように光忠を見つめた。
「わたしは……」
 彼女はなんと答えるつもりだったのか。戸惑いがちに口を開いては結び、また開きと繰り返し、ようやく言葉を見つけたように切り出した――ところで、不意に廊下の向こう側から彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。
「主! ちょっと来てよ〜。安定が……!」
 加州清光だ。
 声に、彼女は溜息混じりに立ち上がった。
「呼ばれているから、ちょっと行ってくるよ。ごめん」
「主、待って」
「すぐに戻るから」
 そう言い残して、二人の喧嘩の仲裁へ向かう。
「そんな、逃げるように行ってしまわなくても――」
 いいのに。
 光忠は無人の部屋でぽつりと呟き、額に手を当てた。彼女を困らせてしまった自覚はあるが、実のところ後悔よりも腑に落ちない気持ちがやや勝っている。加州と安定の喧嘩も、自分の奇妙な欲求も、どちらも然程変わりはしない――と、光忠は思う。長谷部の忠誠心も、或いは歌仙の近侍としての使命感も、甘やかされた小夜や今剣の喜びも、同じだ。結局のところ、人間ごっこの延長にすぎない。
(なのに、僕ばかり上手くいかない。どうにも間が悪い)
 文机の上に置きっぱなしにされた押し花の栞を隻眼で見つめながら、光忠は苦く息を吐き出した。無意識に、片手をポケットに差し込む。指先に硬いものが当たった。例の馬鹿げた薬が入った小瓶だ。
 引き出しの中にしまっておいたはずのそれが、いつの間にかポケットに入っていたことに気付いて、内心ぎくりとする。たとえば歴史改変を目論む者に胸の内に眠る願望をぴたりと言い当てられたとしたら、こんな心地になるのだろうか――なにかよくない存在に耳元で誘惑を囁かれたような――そんな後ろめたさと、相反する期待に心臓が早鐘を打つ。ただの刀剣、付喪神が、分かりもしない人の心を探るより、それはずっと確実な手なのかもしれなかった。
 ほとんど衝動的に立ち上がり、襖続きになっている歌仙の詰所へ足を踏み入れる。雅風流を語るわりに、私物らしきものはほとんどない。文机のところに辛うじて螺鈿細工の文箱が置かれているだけだ。彼に言われていたとおり薬棚を探ると、薬包はすぐに見つかった。なんとなく後ろめたい心地でそれを一包手に取ると、光忠は彼女の部屋へ戻った。机の脇に置かれた水差しの中身は、まだある。
 それを確認し何食わぬ顔で仕事を続けていると、ややあって廊下の向こうから彼女の足音が聞こえてきた。襖が開く。
「ただいま。まったく、あの二人ときたら仲がいいのか悪いのか」
 思いの外、喧嘩の仲裁は手間取ったのかもしれない。彼女は心なしか疲れた顔で、胃のあたりを押さえている。
「ご苦労様。おなか、痛いの?」
 若干の後ろめたさを覚えつつ、光忠は訊ねた。彼女が曖昧に笑う。
「ああ、歌仙から聞いたんだ?」
「まあね」
「この仕事をはじめてから、弱くなってね。ほら、上が無茶を言ってばかりだから。予算のことだとか、合戦の達成目標だとか、きりきりして胃に穴が空きそう」
 冗談めかしたつもりなのかもしれない。苦笑は、苦さの方が勝っていたが。そんな彼女に笑い返してしまっていいものか迷って、光忠はそっと目を伏せた。
「薬、飲む? 歌仙くんから預かっているよ」
「飲んでおこうかな」
「水は僕が、注いであげる。丁度、いいものを持っているんだ」
 ああ、もう後には引けない。
 好機と喜ぶよりはむしろ、罠かと疑わずにはいられなかった。彼女に触れようとするたびいつでも横槍が入ってきたというのに、こういうときばかり誰も邪魔しにきてはくれない。廊下に人の気配はないし、彼女を呼ぶ他の刀剣たちの声も一向に聞こえてはこない。
 手の中に握りしめていた小瓶の蓋をゆっくりと開けて、中の液体をとろりと白い湯呑みの底に零す。水差しから水を注いで薬包とともに渡すと、彼女は匂いを嗅いで少し不思議そうな顔をした。
「甘い匂いがする。蜂蜜?」
「そう。疲れたときには甘い物、だろう?」
 上手く笑えていただろうか。
 唇は引き攣ってしまわなかっただろうか。
 酷く恐ろしくなってしまって口元に触れる。唇は綺麗に弧を描いている。彼女も特に不審を抱いた様子もなく、薬包の中身を口に含み、苦さを打ち消すように甘い水を一息に――
 その白い喉が上下するのを、光忠は瞬きもせず眺めていた。一滴も残さず、ほんのりと赤く色付いた唇に吸い込まれていく。それを飲み干すと、彼女は湯呑みを机に戻して手の甲で唇を軽く拭った。
「ありがとう、燭台切」
 吐息とともにそう零して。

 ――ああ、そうだ。
 快楽に戦く彼女の顔を眺めながら、光忠はぼんやりと思い出す。

 吐き出す吐息に切なさが交じり始めたのは、それから五分も経った頃だったか。ノートパソコンに向かう横顔が、熱に浮かされたように赤く染まっていくその様を、まるで魔法のようだと思いながら眺めていた。小さく開いた唇から吐息が、彼女の意思を裏切って切なげに零れる。混乱したように瞳を潤ませる彼女のすぐ後ろにぴたりと寄り添って、光忠は低く囁いた。
「ねえ、主」
「な、なにかな、燭台切」
 ああ、不穏な気配を感じ取った体は細かく震えているのに。それでも彼女は異変を悟らせまいと声音を作ろうとしている。
「責任を取ってほしいんだ」
 哀れに思う反面、酷く苛立たしくなってしまって、光忠は彼女の華奢な肩を無造作に掴んだ。耳朶に触れんばかりに唇を寄せ、
「なんっ……」
「顕現の弊害。僕は自分の感情を持て余している」
「燭台切――」
「光忠と呼んでよ。君が人間扱いをするから、寂しくなってしまったんだ。こういうの、人肌が恋しいって言うんだろう?」
 するりとスーツの内側に手を差し込む。自分のシャツとそう代わりのない、その服の構造はよく分かっている。肌に触れる指先と擦れる服の感触にさえ劣情を煽られて、彼女は抵抗もできない様子だった。唇で、露わになった首筋に吸い付く。体はもう、じわりと熱を帯びている。硬く立ち上がった胸の先に指先で触れると、彼女は喉を引き攣らせた。
「ひっ、ぁっ!」
「ここ、触られると気持ちいいんだよね?」
 数少ない知識と人の体を得てから備えるようになった生きものとしての本能を頼りに、甘い刺激を与えていく。柔らかな胸の膨らみをやわやわと揉みしだきながら、親指と人差し指で挟み込み、押し潰すように乳頭を撫でると、光忠の体を押し止めようと触れていた手には抵抗とはまた違う力がこもった。助けを求めてしがみつくような、その仕草に内心喜びながら、きゅっと少し強めに胸の先を抓る。
「んっ……」
「少し乱暴なくらいの方がいいのかな。それとも、たっぷりと優しくした方がいい? 主の好みを教えてよ。僕は知りたいんだ。他のみんなが知らない、主のことを」
 耳に舌を這わせて、こちらの問いかけに答えてくれる様子もない彼女の体を、もどかしくなるほど時間をかけて解いていく。どれくらいが頃合いなのかも分からないまま、下半身に手を伸ばすと、指先がねっとりと濡れた。熱く潤んだそこへ指を根元まで埋め込む。指の腹で中を擦ると、内側がきゅうっと収斂した。
「ぁ、ゃ……ちが、こんな、ちがっ」
「違う? 指じゃ、足りない?」
 きっとそうではないのだろうなと、一生懸命かぶりを振る彼女を眺めつつ。指を入れてからそれほど時間をかけてもいないのに、もうとっぷりと蕩けてしまったそこから光忠は指を引き抜いた。
「僕も指じゃ足りない、かな」
 彼女の体を片手で抱えたまま、もう片方の手でベルトを外す。かちゃり、と金具が奏でる音はまるで鍵の掛かった扉の開く音にも似て。残っていた良心を扉の内側へ置き捨てると、光忠はズボンを下ろした。興奮した自覚もないのに、それが当たり前と言わんばかりに雄は膨れている。胡座をかいた足の上に向かい合うように彼女を座らせ、勃ち上がった先っぽをぬかるみへ押し付けると、そこはぴったりと吸い付いてきた。
「しょく、燭台、切……だめっ」
 誘うように甘い拒絶から耳を塞ぐように、貫く。瞬間、彼女の体が跳ねて、両手が体の横へ落ちた。偽りの快楽に煽られて、ただ繋がっただけで絶頂を迎えたのか――或いは、拒絶を諦めたのか。
 どちらだろうと思いながら、光忠は埋め込んだ雄を軸に彼女の体をずくずくと揺さぶった。甘い苦痛を為す術もなく受け入れる彼女の、やり場のない手を導いて自分の首へ回す。彼女は存外にあっさり首にすがりついて、光忠の耳元で鳴いている。
(ああ……)
 彼女の腰に回した腕にいっそうの力を込めながら、光忠はひっそりと甘い吐息を吐いた。与えるほどに返ってくる快楽に悦びながら、反面で胸が切なく締めつけられた。
「あるじ、お願い」
 内側を優しく突きながら、彼女に懇願する。
「今だけでいいから。光忠って呼んで」
 下半身は深く繋がっている。彼女も強く抱き返してくれている。
 それなのにどうしてか。責めるほどに、幸福を覚えるほどに、例の寂しさは増すばかりだ。ぐっと腰を押し付けて彼女の存在を確かめても、何故か一人きりでいるような、そんな錯覚に途方に暮れながら「お願い」と繰り返す――まるで噎ぶような光忠の声に、彼女はかじりついていた首筋から少し顔を上げた。涙の膜が張った瞳には、今にも泣き出しそうな金色の瞳が映っている。
(僕だ)
 そんな当たり前のことに気付くのに、光忠は数秒を要した。と、
「みつただ――」
 耳元で彼女が囁いた。胸が震える。
「……もう一回」
「光忠……ごめん……」
 それは、なんに対する謝罪だったのか。光忠には分からなかった。彼女の手が首から離れて、そっと光忠の髪を掻き上げた。露わになった額に、彼女は額を押し付けてくる。身動ぎするたびに繋がったままのところから与えられる刺激に、息を掠れさせながら。
「意味が分からないよ。なんで、謝るの」
 どうしてか、その行為に下半身を重ねるよりもいっそう確かな安心感を覚えて、光忠は隻眼を細めると泣き笑いのような表情を作った。


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