白けた月夜に口付け

 白い月明かりが闇を貫いている。そんな夜は好ましくない。月も星も見えない夜か、でなければ姿も足音も生あるものの気配さえも洗い流してくれる雨がいい。
 如月影二は声に出さず独りごちた。
 暗い路地裏ではやせ細った野良犬が餌を探してゴミ箱をひっくり返している。その音に驚いた鼠が慌てて下水道へ逃げていく。そんな気配を感じながら、背の高い建物の屋上から一歩踏み出した。そこに足場はなかったが、どうということもない。落下は、ほんの一瞬に過ぎない。建物の横っ面から張り出したバルコニーを蹴り付け、軽快に跳ねる。
 やがて音もなく、そこへ降り立った。
「こんばんは、如月さん。いい夜ですね」
 目の前では女が、あおざめた唇を薄く微笑ませていた。
 ――いいものか。明るすぎる。
 とは、やはり口には出さなかったが。かぶりを振る仕草で否定をすると、影二は女に手を伸ばした。指先で触れる。やや湿っぽさを含んだ夜の空気にさらされて、彼女の頬はすっかり体温を失っていた。
「いつからここに」
「さあ、いつからでしょう」
「戯れは止せ」
 影二はそっと嘆息し、女の顔を不躾に眺めた。
 まるで不意に生じた霧のように気付けば現れ、瞬く間に世間の話題をさらっていった経歴不詳の格闘家。いや、格闘家であるかも怪しい。やたらと腕は立つものの、本人曰く記憶がない。偽りかと疑って調べもしたが、経歴どころか噂話のひとつも――かえって本人に伝え難くなってしまうほどに――まったく出てこなかった。それが彼女だ。
「待つの、好きなんですよ。明るすぎる月も。如月さんの影が、夜にとても映えるから」
 そう言った女の指先が、覆面に触れてきた。そのまま、ゆるゆるともどかしくなるほどの手つきでずらしていく。されるがままに手が止まるのを待って、唇を重ねた。
(馬鹿なことをしている)
 凍えた彼女を貪りながら、一方でどこか冷静にそう思う。忍びの性か、己の性か。おそらく後者であろうなと胸の内で呟き、女の耳許で囁いた。
「いつまで続けるつもりだ」
 熱のこもった吐息が答えてくる。
「さあ、いつまででしょう」
 まなざしを伏せいつものようにはぐらかす、ああ、その顔は。
(とても戯れには見えぬ――だから、厄介だというのだ)
 

END




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