04

 酷く暗い夜だった。と言えば、上司は鼻で笑って「サウスタウンの裏路地はもっとずっと暗かっただろうが。不抜けたか、ユナ・ナンシィ・オーエン」そう、いつもの調子で言うに違いないが。
(まあ、確かに不抜けたよね)
 ひとり認めて、ユナは溜息を吐き出した。
 霧が濃い。昼間はよく晴れていた。明日の予報はどうなっていたか。降水確率を気にする余裕もなかった。まあ、言い訳だ。以前、影二からストームグラスくらい持てと言われたことがある。一緒に選んでほしいとねだったら、どれでも同じだと素気なく断られた。そんなことは分かっている。口実だ。影二とデートしたかったんだよ。そんな一言は呑み込んだ。
 ――言わなくていいことは、なんだって言うくせにな。
 また脳内で上司が唇を皮肉に歪める。そうですね。と胸のうちで答えて歩く。息を吸うたび肺が冷えた。手足も。嫌な寒さだ。雨の日を思わせる、この濃霧も好きではない。なのに部屋に帰れもしない。
 影二と喧嘩をした。
 上司への報告事項と同じように文字に起こすならば、それだけのことだ。喧嘩の内容に関しても深刻さはない。ないと思う。たぶん。次第に自信がなくなってくる。
 そも、世の男女はなにをもって深刻とするのか?
 戸籍を持たないこと、そこに記されるべき名がないこと、スラムで育ったこと、いちいち覚えていられない程度には人を殺したこと、同じく数えていられない程度には殺されかけたこと――そして、忍者に恋をしたこと。どれひとつとして一般的ではなさそうなそれが、ユナにとっての現実だ。
 思考が逸れたことに気付いて頭を振る。なおも足を止めず、歩き続ける。あたりに生きものの気配はない。もっとも、影二なら相手に気取られることなく背後を取る程度は造作もないのだろうが。
「影二……」
 影二、影二、影二。
 頭を冷やすといって出てきても、この体たらくだ。寝ても覚めても彼ばかりと言うつもりはないものの、結局のところそうであることとほとんど差はない。分かっている。
 堂々巡りに気付いて、また溜息を――
 吐こうとしたところで息が止まった。周囲の様子が変わっていた。コンクリートで固められた灰色の町並みが、いつの間にか消えていた。それらがすべて深緑に置き換わってしまったような森の中、木々の隙間から零れ落ちる月明かりのおかげで辛うじて自分の輪郭だけが分かる。暗闇の中にぼんやり浮かぶ手のひらを見下ろしながら、ユナは少なからず動揺していた。
「ここは……」
 どこ?
 慌てて問いを呑み込んだのは、独り言が思いの他大きく響いてしまったからだった。脳内でけたたましく警鐘が鳴っている。遅れて勘が戻ってくるのを感じた。なにが潜んでいるとも知れない闇。生きものの気配は、やはりない。
 本当に?
 ――いや、いや、いや。
 木々のざわめき。葉の擦れる音。虫の声。まったくの無音というわけでもない夜の静寂に、不自然な空白がある。気付いた瞬間、背筋がぞわっと粟立った。振り向きざま、体を低くかがめる。鎌鼬にも似たなにかが頭上を薙いでいったのは、ほとんど同時だ。
「やはり素人ではないな」
 夜の闇よりなお暗い陰をまとった男が呟いている。
 その声を、ユナは知っていた。
「え、影二……?」




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