03

「知っている」
 知っているともと繰り返して、近い位置にあるユナの顔に手を伸ばす。触れると彼女は少し目を細め、すり、と頬を寄せてきた。
 その感触も、ああ紛れもなくユナのものだ。
 いつでもそうしているように顔を近付ける。灰色がかった長い睫毛が目の下に影を落とす様を眺めながら。けれど唇に吐息がかすめた瞬間、ユナは思い出したように体を引いた。
「それは七年前のわたしにしたげてほしいな」
 こっちの影二にも悪いしね。
 と、やんわり――でなければ、惜しんでいたのかもしれない。見つめ返してくる眼差しは隠しようもなく熱を帯びているというのに――拒む彼女にいくらかムッとして、影二は言い返した。
「拙者の夢だ」
「だったらやっぱりさ、現実でちゅーして仲直りしなきゃ」
「む……」
 今度は反論のしようもなかった。
「本物も、それくらい強気でいてくれたら拙者が気を揉むこともないのだが」
 やり込められた悔しさも半分、複雑な心地でユナを見つめる。彼女は悪戯っぽく片目を瞑った。
「そういう心配なら、大丈夫。今はああでも、四人も子供産めば影二が困るくらい言いたいこと言うようになるし、影二の方も――」
「ま、待て。四人?」
「四人」
「四人……」
 果たして、それもおのれの願望だろうか。
(確かに如月流のためにも子は多い方がよい……のか?)
 なんとなく決まりが悪くなってしまって咳払いをひとつ。
「では、拙者はユナを探しにゆく」
 夢の中で宣言するというのも奇妙な話だと思いつつ、なにも告げずにユナの前から去る気にはなれなかった――それだけは二度としないと誓った。たとえ目の前の光景がゆめまぼろしであったとしても。
 背を向けると、どこまでも穏やかな声が追ってきた。
「約束、守ってくれてありがとね」
「これしきのこと」
 実際、現実の彼女もそう言うだろうとは思ったが。想像の中でさえ礼を言わせるおのれの傲慢さに苦笑せずにはいられなかった。そのまま部屋の外へ踏み出す。なにもない空間へ一歩。背後の気配が遠退き、ほんのわずか世界の輪郭が曖昧になる。狭間に聞こえてきた会話も、やはり夢なのだろうと決めつけて――

「夫の居らぬ間に若い男と逢瀬とは悪い女房もいたものだ」
 低い笑い声に女は振り返る。同じ年月を共にした分だけ歳を重ねた男の顔が、じっと彼女を見つめていた。愛おしむように。もしくは、少しの怒りも含まれているのだろうか。そんなことを思いながら、過去の彼にはついぞ伸ばすことのなかった手で男に触れる。
「もう、分かってるくせにそういうこと言う」
「ああ、分かるとも。分かっているとも。お前のことならばなにもかも。あるいは、おのれのことよりもずっと」
 だからいっそう腹立たしいのだ。呟くと、彼は不意に女の唇を吸った――貞淑な女房のふりをして、過去も含めたすべてのオレを愛してやまぬくせに。浮気者め。あの瞬間ほんの少しでも唇が触れていたのなら拙者はすぐさま飛び出して、間男を蹴り付けていた。
 言葉の代わりに口付けで会話を交わすことにも、慣れてしまった。互いに等しく慣らされてしまった。男の激情を呑み込みながら、女は彼の舌にそっと吸い付いた――だったら、もっと強く抱きしめて。わたしが他へ気をやらないように。男が応じる。
 彼らにとっての、うつつのうちに。




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