霧雨に逢う

「ちょっと、頭冷やしてくるね」

 外へ飛び出していったユナの後ろ姿を見送る。声はかけなかった。玄関のドアが閉まる頃にはもうかなり後悔していたとて、それを言えないのが性分だ――というのは言い訳にもならないのだが。
 溜息をひとつ。如月影二はベランダから夜の闇に視線を投じた。山中とは違う。漏れる室内灯や外灯に照らされた都会の夜は、昼ほどとは言わないまでも明るい。少なくとも飛び出していったユナがどちらの方向へ駆けていったのか、そこからでも見える程度には。
 発端はなんだったか。
 どこにでもあるような痴話喧嘩だ。特別なことはひとつもない。ない、と、思う。たとえおのれが忍術を究めた者であったとして、たとえ彼女が裏社会を牛耳る反社会的組織の構成員であったとして、互いに一歩踏み込んでしまえば男と女である事実しか残らない。
 ――だからこそ、てめえには難しいんだろうよ。
 と言われてしまえば、それもその通りだ。
 脳内で笑う元チームメイトに毒づいて、影二は吐いた分を取り戻すように息を吸った。空気が湿っている。霧の濃い夜だった。いや。
 いつの間に?
 首を傾げる。それでもユナを追いかける建前はできたかと、そのまま飛び降りようとしたところで不意に呼び止めてくる声があった。
「影二」
 部屋の中から。
 聞き慣れた声に、影二は背後を振り返った。
「ユナ……?」
 飛び出していったはずのユナが、なぜかそこにいる。狐につままれたような心地で彼女の方へ一歩踏み出すと、足下の感触も変わった気がした。固いフローリングではない。手入れされた畳。井草の青々とした匂いが、鼻腔を突く。この場所は、よく知っている。
(これは、いったい……)
 どこにあるとも知れない忍びの隠れ里――如月の里にある、養父から継いだ屋敷。見慣れた和室の中、着物を着付けたユナが乱れのない正座姿で影二を見つめていた。
「影二?」
 もう一度。今度は少し怪訝そうに、ユナが呼ぶ。その声で我に返って、影二は弾かれたように後ろへ飛んだ。貴様は誰だ。誰何にユナが首を傾げる。それから少し考えるそぶりで視線を上にやって――その仕草はまぎれもなく彼女のものだ。「ああ、なるほど」と、そんなふうに自己完結してしまうようなところも含めて、ユナ・ナンシィ・オーエンでしかありえない――苛立つ影二に、こう告げてきた。

「そういえば昔、こんなことあったね。はじめまして、七年前の影二」




TOP