蛇足。若しくは無粋な秘めごと



 はじまりは幼馴染の一言だった。
 ――浩くん、泡風呂やりたい。
 またはじまった――というのが、片桐浩二の正直な感想だった。歳はひとつしか変わらない、けれど妙に子供っぽいところのある万里が唐突になにかを思いつくのは、今にはじまった話でもない。出会った頃からそうだった。他の人間に対してどこか遠慮がちで人見知りな彼女が、片桐にだけそうだった。これは俺に甘えているのだと気づくのに時間はかからなかった。
 だから片桐には万里と付き合う以前から、
(万里のおねがいに付き合ってやれるのは、俺だけだからな)
 という漠然とした使命感がある。優越感とも、呼ぶのかもしれない。
 誰に言っても過保護だと苦笑されてしまう、そういった類の話ではあるが。
 ともかく、万里がそれを望むならと答えた。泡風呂専用の入浴剤などというものがなくても風呂を泡だらけにできることは知っていた。幼い頃、万里にねだられたことがあったのだ。
「ねえ、こうくん。おふろあわあわにしよ」
 そのときも、片桐はこう答えた――ああ、そうしよう。
 当時は恒例だったお泊り会。一か月に一度か二度は、片桐か万里の家で兄妹のように過ごした。親同士も微笑ましく、あるいはもうなにかを察したように見守っていたような気もする。
 泡風呂の作り方など知らない時分だ。五つか、六つ。小学校にさえ上がっていなかった。
 風呂場で二人、湯を張った浴槽にボディソープを入れた。小さな手足でかき混ぜた。それでどうなったか、結果は言うまでもない。泡は立たなかった。むきになってボディソープを一本使い切って、親からは嫌というほど叱られた。大泣きする万里を抱きしめて、ひとつの布団で一緒に眠ったことを覚えている。
「だってしらなかったんだもん。あんなにおこらなくたって」
 ひっくと喉を引きつらせながら、浩くんは優しいから好き……とパジャマの裾を掴んできた万里の可愛かったこと。幼馴染には悪いと思いつつ、片桐はどうしようもなく嬉しかったのだ。
 ――だから、泡風呂の作り方は知っている。
 あのときは順序が逆だった。まずはボディソープを入れて、後から湯をそそがなければ駄目だ。
(そういう、些細だけど重要なことって結構あるよな)
 なんとはなしにひとりごちて、ちらりと隣を見る。
 万里はもうすっかりわくわくした顔で、浴槽と片桐の手の中とを見比べていた。
「ねえ、浩くん。はやく、はやくやろ」
 急かす彼女は分かっているのだろうか。
「脱がないのか」
「へ」
「下着。そのまま入るわけにはいかないだろ」
 水着ではあるまいし。
 パステルブルーの下着を見ながら、小声で付け加える。そういえば彼女の水着姿は中学校以来見てないだとか。高谷は――あの後輩は月に何度も見ているのか、だとか。まあ余計なことだ。どうせどちらも泳ぐばかりで相手のことなど気にも留めていないに違いないのだから。
(……今度見せてもらおう)
 密かに決めて、じっと万里を見つめる。
 ――浩くんが青、好きだから。
 だから選んだのだというフリルの下着。最初に見せられたときは正直それどころではなかった。あっという間に脱がせてしまったそれを改めて見れば、大胆なフリルが万里によく似合っている。それで急かされたと感じたのか、彼女は少したじろぐとおずおず背中に腕を回した。
 ぱちん、と音がする。それだけでドキリとする。
「脱ぐから……浩くんはお風呂、して」
「…………」
 どこで覚えたんだ、そんなの。
 今日だけで何度そう思ったか知れない。
 それを言えばまた女子の闇に触れてしまいそうなので口にはしないが。
 片桐は勢いよく顔を背けると、浴槽の中にボディソープを流し入れた。ボトルの三分の一程度。それから蛇口をひねる。途端、甘い香りと大きな泡が広がった。たったそれだけのことなのだ。
 けれどたったそれだけのことで酷く嬉しくなってしまった。
「万里――」
 成功したぞ。
 背後を振り返る。と、視界が不意に暗くなった。布を押し付けられたのだと気づいたときには、ぱしゃんと湯の跳ねる音がした。なんなんだ。少し水を差された心地で顔に張り付いた布を剥す――パステルブルー、例の、下着。「ぶっ」ブラジャー。お、おい。
 慌てて浴槽を見れば、万里は照れたように泡で体を隠していた。
「ごめんね。恥ずかしかったから」
 今更じゃないかとも言えず、そうだよなと頷く。入るから少し後ろを向いていてくれと頼むと、彼女は素直に後ろを向いた。濡れた髪が白いうなじに這っている。その光景で下半身にふたたび熱が戻るのも――今更だよなとどこか冷静に思いながら。
 脱いだ下着を脱衣所の方へ放り投げ、そっと湯船に足を入れる。脛のあたりにするりと触れる万里の背中の感触が酷く心臓に悪い。傍目に見て分かるほど、彼女の肩が震えているのも。
「万里」
 胸のあたりまで沈んで、後ろから万里の肩を引き寄せる。足の間にすっぽり入り込んだ彼女は、肩越しに振り返ると口を尖らせた。小さく上を向いた唇が、鳥の嘴のようでなんとなくおかしい。
 どうしようもなく恥ずかしいとき、拗ねたふりで誤魔化そうとするのは万里の癖だった。
「……浩くん、あたってるの」
「なにが」
「分かってるくせに!」
 分かっている。それもお互い様だ。
「子供の頃は二人で入っても余裕だったのにね」
 諦めたように――でなければ感慨深く――呟いた万里の吐息が、甘い湯気をスッと割った。
 なんとなくぬめつく湯の中、細い指先で片桐の腕をなぞる。
「抱きつかなきゃこうして体が触れることもなかったし。そう考えたら今のが距離は近いのかな」
「言われてみれば」
 そうかもしれない。
 数えきれないほど手を繋いだ。
 数えきれないほど抱き合った。
 ときには秘密の口付けもした。額に。頬に。鼻先に……くちびるに。
 それでも、こんなにも近く互いの鼓動を感じたことはなかったのだ。
 脇の下からするりと両手を差し入れる。くすぐったがった万里が身をよじる。
「あの頃は下心なんてなかったんだ」
 耳元で囁くと、彼女が笑った。いくらか挑発的に。
「わたしはね、あったよ」
 それが合図になったというわけでもないが。
「そうか」
 片桐は短く頷いた。目の前にある、無防備なうなじに吸い付く。
「……ねえ、浩くん。痕付けるやつ、して」
「ああ」
 これに限ってはねだられるまでもないのだ。
 赤く咲いた血の花を舌先でなぞる。それだけで呼吸を早くする万里に、いっそう胸は昂った。その腰がわずかに――物欲しそうに――浮いたことには気づかないふりをして、両手で胸を掴む。五指からわずかに零れる、その質量をともなった柔らかさに腹を立てて。
「浩くん、先っぽはやだ……!」
 指先に力を込める。赤く色付いた先端を指先できゅっと摘まむ。万里が小さく悲鳴を上げた。






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