未満の幸福

 時代を感じさせるレトロな店内には、ジャズが静かに流れていた。その空間が、蛇尾八雲は好きだった。
 店主が趣味でやっている個人経営の小さな喫茶店。以前叔父に連れられてきてから、彼が通わなくなった今も八雲はひとり定期的に訪れている。
 意匠の凝ったドアを押すと、ドアベルが涼やかな音を立てて客を迎えた。カウンターの奥でコーヒーを淹れていた初老の店主が一度だけこちらを見て、相好を崩した。

「いつもの席へどうぞ。今日は牙頭さんも――」

 そう言いかけた店主の動きが、ぴたりと止まる。八雲の後ろから無遠慮に店内を見回しているのが、知った顔ではないことに気づいたからだろう。
 彼は静かに狼狽しつつ、言い直した。

「ええと……お連れの方もどうぞ」
「ありがとう、おじさん」

 店主に頭を下げ、八雲は背後を振り返る。そこにいた男――山吹千晴は少しおかしそうに唇の端を歪めた。

「オマエ、おじさんって呼ぶ男がたくさんいるんだな」
「たくさんって大袈裟だよ。ふたりだけじゃん。しかも、猛晴くんのことは、普段は叔父さんって呼ばないし……」
「とか言って、絶対他にもいるだろ。まだ見ぬおじさん。あと自称オマエのおじさんとか。オマエみたいなタイプ、とにかく年上受けがいいからな。知らないばばあに飴とかもらってそうな――ちゃんと断れよ。危ねえから」
「いや、いないって。飴は……うん、気を付けるけど」
「ほらみろ」

 なにが、ほらみろなのかは分からないが。
 八雲は首を傾げつつ、山吹の袖を軽く引いて奥の席へと案内する。午後も早いせいだろうが、店内はがらんとしてふたりの会話に眉をひそめる客もいない。
 入口からは見えない奥まった位置にある、四人掛けの席。
 そこは昔から、叔父の特等席だ。幼い頃の八雲は、週に一度ここへ連れてきてもらうのが楽しみだった。コーヒーを飲みながらノートパソコンを開く彼の向かいで、チーズケーキを頼んでもらった。
 ――猛晴くんも、半分食べる?
 そう訊くたびに彼は「一口でいい」と言って口を開けた。
 その口元へ一口分のチーズケーキを運ぶことが、幼い八雲にとってはなにより幸福で誇らしかった。
 そんなことを思い出しながら、八雲はちらりと向かいに視線をやった。そこにいるのは叔父ではなく、捜査二課の刑事である。ある事件を機に繋がった彼との奇妙な縁は、今も細く続いている。
 月に二度ほど、山吹の指定した非番の日に会う。そんな奇妙な関係だった。はじまりは八雲が「進路相談に乗ってほしい」と連絡をしたことだが、今日のようにカフェやファミレスに入って近況報告という名の雑談に興じることもあれば、映画を観に行くこともある。前回はバイクのパーツが売っている専門店をいくつも回って一日終えた。

「ガキが非行に走らないよう定期的に様子を見てやるのもヒーローの務めだろ」

 山吹曰く、そういうことらしい。子供扱いは不本意ではあるものの、理由を付けては甘えさせてくれる彼のことが八雲は好きだった――そう、好き。
 それは叔父以外の人間に抱いたことのない感情だ。
 幼い日、まだ父と母が揃っていた頃でさえ彼らにそういった感情を抱いたことがあったかどうか。覚えはない。愛された覚えもない。そんな自分の境遇を悲観したこともない。八雲なりに幸福ではあったからだ。それでいいとも思っていた。実の両親や他の親戚たちも八雲を持て余したのだ。まして血の繋がらない他人の中に自分の居場所があるとは到底思えなかったし、実際、彼らは叔父と八雲の関係を邪推することもあった。
 しかし、だ。それでも叔父は執拗に、八雲に外の世界へ目を向けるよう言った。彼自身も親友以外の他人に散々失望してきたのに、八雲が世界を閉ざすことを許さなかった。叔父と姪、ふたりきりの世界をつくってしまうことを極力避けていた様子もある――
 叔父は頭のいい人だ。意味のないことはしない人だ。
 だから八雲は、彼が自分になにを教えようとしているのか考えてきた。ずっと、ずっと。
 そうして今は、少しだけ理解したような気がする。

「で、オマエのおすすめは?」

 山吹が珍しく訊いてくる。八雲は答えた。

「チーズケーキ」
「チーズケーキったって種類があんだろ。バスク風とか、ニューヨークとか。そこを省くなよ」
「ここのはニューヨークチーズケーキだけど……千晴くん、そういうの気にするんだ」
「今、馬鹿にしたな?」
「してないよ。ただ、それこそチーズケーキなんてどれも同じだって馬鹿にされるような気がしたから」

 取り繕うでもなく素直に告げると、山吹は鼻で笑った。

「物事の違いを気にしないやつが、足元をすくわれる」
「それって刑事としての経験?」
「それと副――」

 彼は気分よく首肯して、さらになにかを言いかけたが。

「ふく?」
「いや、あー、そう。経験。ソレ、いいな」

 かぶりを振って、言い直した。

「刑事の勘なんて言うやつもいるが、勘は駄目だろ」

 カウンターの方をちらりと見て小さく片手を挙げる。
 すぐ注文を取りに来た店主にコーヒーとチーズケーキを頼み、こちらに視線を寄越してくる。もう決まってんだろと言わんばかりだ。八雲はひとつ頷いて、店主に告げた。

「わたし、コーヒーとフルーツタルト」
「チーズケーキがおすすめなんじゃなかったのかよ」
「そうだけど、違うの頼んだら千晴くんも味見できるし。おじさん、よかったらナイフを一本お願いします」
「あ、ああ。いいよ、八雲ちゃん」

 やはりなんとなく気まずそうな――まるで親戚の子供が恋人でも連れてきた、そんな顔で注文を繰り返し、店主はカウンターの奥へ戻っていった。
 そんな店主の後姿に首を傾げつつ。

「そうそう。それで?」

 八雲は山吹に視線を戻した。
 もっとも、彼の言葉を借りるのならこういった違和感をこそ見逃してはいけないということなのだろうが。
 メニュー表をぱらぱらめくりながら「今度、相棒も連れてきてやるかな」などと呟いていた彼は、八雲の声に気づくと視線を上げた。一瞬だけ不思議そうな顔をしたのは、先の話題から間を開けすぎたせいだろう。

「あー……別に引っ張るような話題でもなかったんだが」

 すぐに思い出してそう言うと、山吹は頬を掻いて続けた。

「馬鹿なやつは、言語化できないことをすぐに勘って言葉で片付けようとする。勘ってのはつまりだな――第六感だとか超感覚知覚だとかそういう根拠の薄いもんじゃなく、人が経験の積み重ねから知覚できるようになる違和感だ。だから、物の違いを気にしないやつほど鈍くなる」
「なるほど……?」
「オマエも、気を付けろよ。八雲」

 そう締めくくったのは、彼なりの親切なのかもしれない。

「じゃ、さ。わたしも違和感をひとつ。おじさん――猛晴くんじゃなくてマスターのおじさんが、さっきからなんか微妙な感じな理由も、千晴くんには分かる?」
「あのなぁ。そんなの、言わせんな」

 呆れたように嘆息しつつ、山吹。

「分からねえから、まだガキだってんだよ」
「なにそれ」
「別に。分かるようになったら教えてやる」
「それ、意味ないよね?」
「お、さすがにそこには気づいたか」
「あー! 馬鹿にした!」
「してねーよ。むしろ、成長したなって感心した」

 言葉とは裏腹にニヤつきながら、彼は肩をすくめてみせた。
 ――やっぱり、馬鹿にしてるじゃん。
 そう言い返そうとしたところに、店主がケーキとコーヒーを持ってきた。彼はむくれている八雲を見るとやはり意外そうな顔をして、けれどなにも言わずに去っていった。
 それで勢いがそがれたというわけでもないが。

「……じゃ、食べよ。冷めちゃうから」
「ケーキは冷たいだろ」
「ほら、すぐそういうこと言う!」

 軽口を交わしながら、それぞれの皿に手を伸ばす。

「半分、あげるね」
「じゃ、こっちも半分やるよ」
「え、悪いよ。わたしが千晴くんにいろいろ食べてほしいだけだし……それに千晴くん、たくさん食べるでしょ?」
「馬鹿。こういうときは、ありがとうでいいんだよ」

 山吹は肩をすくめると、ふたつのケーキをさっさと切り分けてしまった。
 ジャズの流れる店内。
 窓から差し込む午後の光に揺らめく、グラスの影。
 そして半分ずつのタルトとチーズケーキ。

「……ありがとう」

 なんてことのない時間だ。けれど、それは八雲がずっと探してきたものだったのかもしれない。与えてくれた当の本人はなんでもない顔で、いつものように尖った歯を見せて笑っている。

「おー。よくできました、だ」

 それはまるで――
 幸福を分け合うような甘くて静かな午後だった。




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