脱衣所の入口には規制線が張り巡らされていた。
 ここから先は捜査中、ということなのだろう。本来ならどうやって侵入するか頭を悩ませるところだが。

「お、来たな。こっち来いよ、八雲」

 規制線の奥から八雲を招き入れたのは山吹だった。時雨とは別行動のようだ。沼津署の刑事たちは嫌そうに彼を眺めていたが、素知らぬ顔で化粧台前のスツールに腰を下ろしていた。

「千晴くん! 待っててくれたの?」

 思わず駆け寄ると、山吹も満更でもなさそうに答えた。

「お前だけだと現場に入れねぇだろ」

 なんでもないことのように言って、八雲の頭をわしわし撫でる。八雲をそんなふうに子供扱いするのは、彼だけだ。
 思えば、両親に撫でられた記憶はない。ハグやキスも、八雲にとってはフィクションの世界にしか存在しないものだった。叔父は八雲を大切に育ててくれたが、殊更ひとりの人間として扱うよう心掛けているようでもある。
(そのことに不満があるわけじゃないんだよ)
 内心、叔父に言いわけをする。
 ただどうしようもなく、満たされてしまうのだ。山吹と対面していると、幼い頃の自分が救われたような気持ちになる。父親が出て行き、母親も帰ってこなくなった部屋でひとり置き去りになった、幼い子供の自分が。

「ありがとう」

 掌の下でそっと告げる。
 感謝の意味を、山吹は特に深くは考えなかったようだ。

「探偵役を押し付けたからには協力しねぇとな」
「期待に応えられるよう、頑張るから……!」

 きゅっと拳を握って宣言する。八雲の勢いに驚いたのか、山吹は少し目を丸くして――それからいつものように尖った歯を見せニィっと笑った。

「おう。期待してるぜ、名探偵」

 その一言だけで、なんだってできる気になってしまう。

「あのね、千晴くん。わたし気になってることがあるんだ」
「気になってること? なんだよ」
「若旦那さんの死体を見つけた時に、ちょっと……」

 露天風呂の方を指さすと、山吹は二つ返事で「行くぞ」と歩き出した。八雲も彼の隣に並んで歩き出す。沼津署の刑事たちはやはり迷惑そうな顔をしていたが、口に出して咎めることはなかった。警視庁勤務の刑事が第一発見者を伴ってきた、というのが効いていたのかもしれない。
 脱衣所から外に出る。

「あれ……?」

 なんとなく違和感を覚えて、八雲は首を傾げた。

「どうした?」
「いや、なんか違うなって思って」
「現場保存はしてるはずだぜ?」

 山吹の言う通り、露天風呂に湯は張られたままだ。捜査の指揮を執っていた狛江が、こちらに気づいて眉根を寄せた。

「お疲れ様です。なにか用事でも?」

 言外に「捜査方針に口出しはしないのでは?」と言っているようにも聞こえる。それに対して山吹は悪びれもせず笑った。

「用事ってほどのことでもねーよ。お子様の職業体験だ。なあ、八雲。働くおまわりさんはカッコイーだろ?」
「うん。すごく恰好良い」

 山吹を見ながら、八雲は素直に頷いた。
 その言葉をどう受け取ったのか。

「……現場を見て、なにか思い出すこともあるでしょう。第一発見者として見学くらいならいいですよ」

 こほんと咳払いする狛江を横目に、山吹が囁いてくる。

「意外とちょろいぞ、こいつ」
「千晴くんは手強すぎるんだよ」

 ――少しくらい照れたりしてくれてもいいのに。
 ぼやきを声に出すことはしなかったが、彼のにやけ顔を見るに胸のうちを読まれてはいるのだろう。
(まあ、わたしの扱いなんてよくも悪くもお子様だよね。今は……。ここからどう追い上げるかって話で)
 分かってはいたので落胆はない。すぐに思考を切り替え目の前の事件に集中する――山吹たちにとってはお子様の探偵ごっこでも、八雲にとっては重要な課題だ。
 まずは、ひとつ。
 花崗岩で作られた浴槽の縁に近づいて、しゃがみこむ。
(どこだろ。あのときはもっとあった気がするんだけど)
 じっと目を目を凝らし、探す。あった。それを見つけて、八雲は足元の桶で水面を揺らした。一見泡のようにも見える白いもの。今度は手を伸ばし、指先でつついてみる。泡なら消えてしまうはずだが、それは割れることもなくばらばらと散り、しばらく経つとまた集まってきた。
 よく見れば同じものが縁石にも付いている。指で触れてみると、柔らかくて、水に溶けた紙のような感触があった。

「どうした?」

 隣にしゃがみこんで訊ねてくる山吹に、訊き返す。

「千晴くん、これってなに?」
「沈殿していた温泉の成分でしょう。今は循環設備を止めているので、除去されず残っているんですよ」

 答えたのは狛江だ。

「除去されず……?」

 会話に割り込まれたことも気になるが、それよりも。
 ――循環設備を止めているから残っている。
 引っかかるものを感じて、八雲は眉を寄せた。
(だったらなんで……)
 なんであのとき、やけに目についたのか。
 八雲が死体を見つけたとき、循環設備はまだ止められていなかったはずだ。考え込む八雲を見かねたのか、山吹がそれを否定した。狛江の指摘による思考誘導を嫌ったのかもしれない。

「いや、湯の花だろ」
「湯の花?」 

 訊き返す八雲に、彼が答える。湿ってふやけた湯の花を指先でばらばらにしながら。

「硫黄系の温泉でできんだよ。高温でな」
「高温で……」

 思い出したのは、危ういほどに視界を覆う白い湯気。
 茹だった男の死体。
 指先を湯の中に沈め、八雲は静かに思索した。パズルのピースがかちりとはまる不思議な高揚感を頭から追い払い、いつもどおり冷静に考える。次になにをすべきか。

「湯の温度が安定してると残らねーからな。てことは?」

 山吹がちらと八雲を見つめてくる――瞳は優秀な生徒の答えを期待する、教師のそれだった。言外に「オマエなら分かるだろ」と言われている気がして、八雲は大きく頷いた。

「千晴くん、わたしもうひとつ確かめたいことがあるの」
「だろうな。行ってこい」
「うん。答え合わせ、楽しみにしてて!」

 彼の声に背中を押され、弾かれたように走り出す。







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