微熱の距離

 ――借りていたジャケットを返したいので、都合のいい日を教えてください。
 山吹の携帯電話にそんなメッセージが届いたのは、事件から一週間が経った頃だった。あのとき逮捕された詐欺グループのメンバーは身柄送致の上、現在も勾留されている。検察の捜査に時間がかかっているのは、被害者数が多いせいだろう。とはいえ、起訴になることはほとんど確定のようなものだ。
 山吹も相棒の時雨とともに後処理に追われていたため、少女に貸していたジャケットのことはすっかり忘れていた。

「律義なやつだよな」

 どうせ適当な理由を付けて郵送で返してくるだろうと思っていたのだが、礼をするという約束も含めて守る気でいるらしい。そこには警視庁から離れた方がよければ適当なカフェを指定してくれとも書かれている。

「相変わらず、気を回しすぎてガキらしくねーよなー」

 そんな話をすると、時雨が眉をひそめた。

「連絡先を教えたんですか。君が?」
「あ? ああ。なんだよ、その顔」
「いえ、別に」

 とは言うが、どことなく引いた顔だ。
 そんなに軽率だっただろうかと訝りつつ、山吹は手の中の携帯電話を見つめた――さて、どうしたものか。

「随分と肩入れしていますね、相変わらず」
「そんなに大袈裟な話でもねぇだろ」

 八雲は態度こそ斜に構えたところはあるが遠慮がちで、たったひとりの身内にさえ気を遣うような少女だ。存外に素直で弁えてもいる。
 そんな彼女が、事件を契機に山吹には懐いた。
 単純に、吊り橋効果的なものもあるのかもしれないが――だとしても、頼られれば悪い気はしない。悪い気はしないだけに無碍にはしにくい。人は誰しも、自分を特別ななにかにしてくれるものには弱いからだ。
 山吹自身も例外ではない。それだけの話だった。

「節度は守ってくださいよ。大人として」

 思考の隙間に、相棒の警句が入り込んでくる。
 意味深に。
(なんだそりゃ)
 わけが分からない。意識して節度を守らなければならない状況も思い浮かばない。まさか彼女の前で悪党をぶん殴るな、とでもいうのだろうか?
(今更だよな)
 思い直してかぶりを振る。
 詐欺グループのメンバーを散々殴りつけたあの夕暮れのことを思い出せば、自然と口元が緩んだ。正義という大義名分の許に拳をふるう瞬間はいつだって気持ちがいい。

「別に、気にしねえだろ。アイツも」

 軽い気持ちで呟くと、相棒はぎょっと目を見開いた。

「正気ですか、千晴君。子供に責任能力がないからこそ、大人がそれを受け持つんですよ」
「そんなに大層な話題か? これ」
「大層な話題でしょう。ときに人生を左右することだ」
「あー、確かに?」

 そういえば進路がどうこう言っていたなと思い出す。
 相棒の言うように、相談に乗るなら彼女の人生に影響を与えることにはなるのかもしれない。それにしても、だ。

「お前がそういうこと気にするの、意外だな」
「むしろ君が楽天的だったことが、意外ですよ」

 呆れ顔で、時雨。

「まったく、ぎりぎり未成年淫行にはならないといっても心象的には暴力沙汰より悪い。そのことはよくよく……」
「は? 未成年……は?」

 未成年淫行。まったく身に覚えのない単語を口の中で何度か繰り返して、山吹は勢いよくかぶりを振った。

「お、おい! お前こそなに考えてんだ!」

 相棒の勘違いに思わず声を荒らげる。時雨の方もそれでようやく話が食い違っていることに気づいたらしい。

「違ったんですか?」

 眉をひそめ、そう訊き返してきた。

「ちげーよ! 普通に考えて暴力の話だと思うだろうが。やるわけねえし手も出さねえよ、相手は高校生だぞ!」
「一年もすれば大学生。言うほど子供ではありませんよ」

 激しい否定に対する静かな反駁は、ともすればこちらを焚きつけているようにも聞こえたが。
(……考えすぎだろ)
 それこそわけが分からないので、聞かなかったことにする。受け流したところで差し当たり問題があるわけでもない。そも、相手は小娘ひとりだ。なにも起きるはずが――

◆◆◆

 よく晴れた夕方だった。
 その日は平日だったため、八雲の学校が終わってから、警視庁と彼女の通う高校のちょうど中間あたりにあるカフェで会うことになっていた。
 入口の自動ドアをくぐり、店内を見回す――いた。

「蛇尾八雲……」

 外からは見えにくい奥の方の席に少女を見つけ、山吹はその名前を呟いた。喪服のような黒のセーラー服に紫紺のスカート。見慣れた制服姿だが、妙に存在感がある。
 改めて見ても、美しい少女ではある。叔父である牙頭に似たのかもしれない。横顔の鼻筋から唇にかけて、うっすらと彼の面影があった。彼の持つ、凄みも――そこそこに混雑した店内で彼女の周りばかり空席が目立つのは、そのせいだろう。
 ――もう少し、早く来てやればよかったか。
 携帯電話をいじりながらどこか居心地悪そうにしている八雲を見ていると、なんとも言えない気分になった。

「おい、八雲」

 決まりの悪さを誤魔化すように、短く声を掛ける。
 八雲は呼ばれたことに気づくとパっと顔を上げ、

「あ、千晴くん!」

 まるで友達でも見つけたように片手を挙げて、笑った。そこに以前のような翳りはない。そのことにかえって戸惑ってしまって、山吹は無言で向かいに座った。
 彼女に話しかけられるより先に店員を呼び、アイスコーヒーを注文する。八雲も同じものを、と言った。

「かしこまりました。アイスコーヒーふたつですね」

 そう注文を繰り返してキッチンへ引き返していく店員の後姿を見送ってから話を切り出したのは、やはり八雲の方だった。足元からがさごそと紙袋を取り出し、テーブルの上に載せる。

「あの、これ……千晴くんのジャケット。ちゃんとクリーニングに出したから。貸してくれてありがとう」
「ああ」

 それを受け取ってしまえば、もう話題もない。
 近況のひとつでも訊いてやればいいのだろうが、躊躇の方が勝ってしまった。時雨の邪推が思いのほか効いているのかもしれないし、そうして意識させられたところに八雲からの親愛の情を感じてしまったせいかもしれない。
(どうしろってんだ、この空気……)
 一方の八雲は珍しく鈍く、あれこれ話を振ってくる。
 学校では白崎に関する噂話も下火になってきただの、叔父も事件の解決に感謝をしているだの――そんな会話にもならない一方的な報告は、しばらく続いたが。

「千晴くん……?」

 遅れて、手応えがまったくないことに気づいたらしい。八雲は怪訝に眉をひそめ、やがて俯きがちに口を閉じた。
 それきり会話が途切れ、無言になる。
 沈黙の中、店員が運んできたアイスコーヒーを気まずく啜り、グラスの中身が氷ばかりになった頃。
 彼女が顔を上げた。

「ええと」

 唇を愛想笑いの形に歪め、山吹とは目も合わせず視線を彷徨わせている。感情の読みにくいその顔にほんの僅かな亀裂が生じていたとしても、気づく者は少ないだろう。
 だが、
(……くそ)
 山吹は、気づいてしまう側だ。他人の心の機微に鋭いというよりは、刑事として嘘を暴き続けてきた経験が他人の欺瞞を許さない。胸のうちで毒づきつつ――
 それでもかけるべき言葉は見つからなかった。

「忙しいよね。これだけのことに付き合わせてごめん。じゃあ……そろそろ帰るから」

 傷付いた少女が、静かに椅子を引いた。
 そのまま鞄と伝票を掴み、立ち上がる。そうして、
(そうして、もう二度と連絡してこねえんだろうな)
 山吹は漠然と予感した。
 どうということはない。元より事件が解決した日に切れるはずの縁だった――軽率にも連絡先を教えてしまった。ジャケットをわざわざ洗って返すように言ってしまった。
 そのせいで手間がひとつ増えた。
 それだけのことだ。それだけの。
 けれど、山吹は無意識に椅子から腰を浮かせていた。今にも立ち去ろうとしている八雲の手首を、強く掴む。そのさまは我ながら、陳腐な恋愛ドラマじみていると思わないではなかったが。

「え、なに」

 八雲は驚いたようだった。
 目を丸くして山吹の顔を見つめてくる。視線が交わる。

「無理に帰ることねえだろ」
「え、なんで」
「いや、逆になんでだよ」
「だって山吹さん、わたしのことどう扱ったらいいか分からないって顔してる。事件が解決したテンションで子供の我儘を許しちゃったけど、時間を置いたら我に返って後悔した……みたいな。そんな感じでしょ?」

 すっかり余所向きに戻った呼び方と、自嘲交じりの声に言葉が詰まった。相も変わらず、可愛げがないほど自分の立場を俯瞰した少女だった。

「今更傷付いたりしないから、気を遣わなくていいよ。ジャケット返せたし、もう用件も済んだし……」

 そう言って背筋を伸ばしたのは、きっと彼女なりの見栄だったのだろう。それを、山吹はあっさりと打ち砕いた。

「嘘つくんじゃねぇよ」

 大人の理不尽さで。

「いかにも傷付いてますって顔して、正義を出し抜けると思ってんじゃねえぞ。ムカついたら我慢しないで“酷い”“馬鹿”“死ね”くらい言え」
「いや、言わないよ。そんなの」

 何故か理不尽なことを言われたという顔で、八雲。

「死ねって言って、本当に相手が死んだら嫌じゃん」
「優等生ぶってんじゃねぇ!」
「え、なんなの。なんでわたし、怒られてるの」

 彼女は腑に落ちない様子でその場に立ち尽くしていたが、周囲の視線に気づくとふたたびストンと腰を下ろした。注目を集めてさすがにきまりが悪いのか、耳のふちがうっすら赤く染まっている。

「わけわかんない」
「大人にもいろいろあんだよ」
「ふうん」

 殊更に子供じみた相槌は、もしかしたら当てつけだったのかもしれない。唇をつんと尖らせ、八雲は拗ねたように言った。

「結局、わたしはどうすればいいのかな。山吹さんに会えるってちょっと浮かれてたら、懐くなオーラ出されてさ。空気読んで帰ろうと思ったら今度は説教。挙句、大人にはいろいろあるって。駄目なことは駄目って、言ってよ」
「……オレが悪かった。呼び方も、千晴くんでいい」

 やや声のトーンを落として告げると、八雲は僅かに目を丸くした。濃い琥珀色の瞳に映る自分の姿に気付いてしまって、どうにも落ち着かない。ややあって、

「本当に?」

 八雲が恐る恐る訊き返してくる。期待半分、不安半分の声色がいっそう健気だった。少し、ぞくぞくするほどに。思わず逸らしそうになった視線を場へ留め、なんでもない顔で少女の視線を受け止める。
(って、ガキを相手に馬鹿らしいけどな)
 声には出さず冗談めかしたのは、大人としての矜持だ。彼女が肩から力を抜いた、その気配につられてたとえ安堵してしまったとしても。体裁は保たなければならない。

「千晴くんがいいなら、わたしはもう少し話をしたいな」

 そんな大人の苦労も知らず、子供は無邪気なものだった。

「……コーヒー、もう一杯奢れよ」
 応じる代わりに、テーブルに設置された呼び出しベルを押す。密かに零した溜息には、じんわりと熱が籠っていた。







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