希望。あるいは善い報せ

 如月影二は困惑していた。
 今日は園の遠足日で少し離れたアスレチック公園へ歩いて行くことになっていた。年少組から年長組までの合同行事は一年を通してもそう多くはない。周りの子供はみんな一週間も前から浮き足立って、影二自身も友人たちとともに遠足へ持っていくおやつを選んだりもしたのだが。
(……どういうことだ)
 静まりかえった隣を、ちらりと見る。そこにいるのはいつもと同じ、ユナ・ナンシィ・オーエン――ギース・ハワードの施設で育った孤児で、ビリー・カーンの妹分でもある(同い年にもかかわらず!)
 年中組に進級したばかりの頃に助けてやった縁で親しくなって、今では園で過ごす時間の大半は彼女と一緒だ。もう少し大きくなったら如月流の嫁にしてやってもよいかと思う影二である。
 それはともかく。
 登園バッグより少し大きめのリュックを背負って、ユナはとぼとぼ歩いている。いつもは影二が辟易するほどお喋りな彼女が、珍しく言葉少なで半歩ほど遅れている。
「どうした、ユナ」
 声をかける。彼女はちらりとこちらを見ると、ぎこちなく笑ってみせた。
「なんでもないよ」
「なんでもないというかおではなかろう」
 実際、なんでもないという顔ではなかった。心なしか赤いような気がする――と、そこでふっと気付いて、影二はユナの額に手を当てた。熱い。
「ねつがある」
 驚いて声を上げる。ユナはのろのろ後退ると、鈍い動きで首を振った。
「ないよ。ない」
「八神にいって、園にもどれ」
「いや」
 珍しく頑ななユナに、影二も困ってしまう。庵のところに引きずっていこうかとも思ったが、彼女の方もそういった気配を察したのかさらにじりじり後ろへ下がっていって、他の園児にぶつかっている。ぶつかられた方はムッとした顔で悪態を吐こうとしたようだったが、影二の視線に気付くと「気を付けてよね」とだけ言って離れていった。
「オレも、むりに帰そうとしてわるかった。話くらいは聞いてやるから、となりに来い」
 しょんぼりとしているユナを手招きする。彼女はひとつ頷くと、すごすご傍に戻ってきて言った。
「えいじくんとね、おべんとう食べるの」
「いつもいっしょに食べているではないか」
「ようちえんのお昼とはちがうよ。おねがい。やがみせんせいにはナイショにして」
 真っ青に晴れた空と同じ色の瞳で懇願されてしまうと弱い影二である。仕方のないやつだと呟きながら、体の横で力なく垂れているユナの手を取る。いつもあたたかいその手がいっそう熱を持っていることには気付かないふりをして、影二は素知らぬ顔で言った。
「おぶってやりたいところだが、ぐあいが悪いと八神に知られるのはまずい。オレが手を引いてやるから、それでがまんしろ」
「う、うん」
 頷くユナを気遣いながら歩き出す。日頃の鍛錬で使っている重石のことを思えばユナの手を引いてやるなど造作もない、とまでは言わないものの苦にはならなかった。この瞬間、彼女が頼れるのは――ビリーでもなく庵でもなく――自分だけなのだと思うと俄然やる気も湧いてくる。
 そのまま十分も歩くと、公園の入り口が見えてきた。なんとなくそわそわしはじめた園児たちを抑えるようにして、教師たちが中へと先導していく。組ごとに分かれて点呼を取ると、まずは弁当だ。園内ではもちろん組ごとにまとまって昼食を取るが、遠足の日だけは特別だった。好きな場所で好きな友達と食べていいということで、組も学年も関係なしにおもいおもい散らばっていく。
 影二もユナの手を掴んだまま、他の園児や教師から離れて木陰へ移動した。広く伸びた枝に若葉が茂り、午後の陽射しを遮ってくれる。小さなレジャーシートをくっつけて座れば、ユナも少しだけ表情を和らげた。
「あのね、えいじくん。きょうはね、わたしもおにぎり作ったの」
 にこにこ笑いながら、リュックの中から取り出した弁当箱を差し出してくる。
「ちゃんとらっぷ使ったからきたなくないよ。あまいうめぼしのおにぎりなの。食べてくれる?」
 なるほど、そこには確かに小さな握り飯がふたつ――影二はひとつを掴むと、しげしげ眺めた。ユナの小さな手では三角に握りきれなかったのだろう。ほんの少しだけいびつで、丸い。試しにひとくち囓ってみると塩気も足りない代物だが、
「……うまい」
 思ったまま、素直に呟く。
「ほんと?」
 きらきらと目を輝かせながら前のめりに訊いてくるユナに、オレが嘘など言うものかと言い返して。
「だが、なにゆえ急ににぎり飯を?」
「だって、えいじくんがはなよめ修行だって言ったでしょ?わたし、あれからべんきょもしてるよ。かけっこも、もっと早くなった。きさらぎ流のおよめさんにならないとだから」
 赤い顔で胸を張る彼女の健気なこと!
「りょうさいけんぼの素質があるやもしれぬ」
「りょうさい?」
「よいよめ、よい母という意味だ」
「えいじくんのおよめさんで、ママ?」
 前言撤回。いい女への道のりは、まだ少し遠いようだ。頭の上に疑問符を浮かべ首を傾げているユナに、影二は肩をこけさせつつ言った。
「ちがう! オレの子の……」
「おれのこ?」
「と、ともかく、修行だ。オレも、お前もまだまだ修行をせねばならぬ」
 咳払いひとつで誤魔化し、そうしめくくる。幸い、ユナはそれ以上追求してはこなかった。褒められて機嫌をよくしたのか、良妻よろしく水筒からしずしずと麦茶をそそいでいる。
(……のせられやすいやつだな)
 呆れ半分。けれど自分でも意地っ張りな自覚はあるため、ユナの素直さを好ましく思う影二である。握り飯を食べたあとは、二人でおかずを交換した。なんとなく食欲がないというユナのからあげをもらい、代わりに養父自慢の五目豆をやる。彼女はそれを美味しそうに平らげると――今度、影二くんのお父さんにお料理教えてもらわないとね。と言った。
「ぐあいがよくなったらな」
「うん」
 少なくとも目的のひとつを果たして、ユナは満足したようだ。空っぽになった弁当箱を丁寧に包み直してリュックに押し込むと、影二と拳ふたつ分の距離を空けて座り直した。風邪のことを気にしたのかもしれない。
「今さらだ」
 気を遣われたことに――でなければ、遠慮されてしまったことに――少しだけ腹を立てながら、空いた分の距離を詰める。ユナは困ったような、嬉しそうな、複雑な顔で影二を見つめた。
「しのびは、かぜを引かぬ」
「ほんと?」
「ああ。そのための修行だ。守ってやるとも言ったろ」
 言って、ほんの少しだけ落ち着かない心地になったのは奇妙な空気が流れたように感じたからだった。吹き抜けていくやわらかな風が、癖の強いユナの髪を撫でつける。顔にかかった髪を短い指先で掻き上げるその仕草は、ああ、思わず赤面してしまうほどに幼児らしくはない。その仕草に見とれながら先だっての約束を思い出した影二は、ふいにユナに顔を近づけた。きょとんと見上げてくる青い目に、瞑っておれと小声で――
「おい」
 囁きは、無神経な声に掻き消されてしまった。
「なんだ!」
 苛々しながら振り返る。そこには担任の八神庵が、怪訝な顔で立っていた。
「とっくに昼飯は終わったようだが、お前たちはアスレチックで遊ばんのか」
「赤ちゃん組でもあるまいし、アスレチックではしゃぐなど笑止。せっしゃはユナと四季をめでているのだ。やぼをするな、八神」
 影二は野良猫を追い払う仕草で素気なく言った。八神庵は少し眉をつり上げたが、すぐにいつものことだと諦めたのだろう。可愛げのない……などと愚痴を零しながら他の子供たちの許へ踵を返していく。
 ひとまず誤魔化せたなと手の甲で額の汗を拭うと、隣からユナが袖を引いてきた。
「ありがとね、えいじくん」
「あれしきのこと礼にはおよばぬ」
「でも、アスレチック……」
 なるほど、確かにアスレチックの方を見やればビリーや他の園児たちが殺到している。影二は鼻を慣らした。
 ――そうだ、あやつらは子供だ。それに比べて女を守る自分のなんと大人なことか。
 どこか誇らしい心地で、見つめてくるユナの手を握る。
「きさらぎ流のにんじゅつ修行に日夜はげむオレだぞ。アスレチックなど、ひまつぶしにもならぬわ。くだらぬことを気にするな」
 彼女の手はいつだって赤ちゃんのようにふにゃふにゃで頼りない。
「はらもくちくなって休むにはよかろう。となりにいてやるから少しねむれ」
「くちく?」
「はらいっぱいになっただろう?」
「ん……ねて、おきたらおねつ下がるかな?」
「ああ」
 頷いたことにはなんの根拠もなかったが。
「えいじくんが言うなら、そうなんだろうね」
 そう呟くとユナは大人しく目を瞑った。聞こえてきた寝息に、嬉しいような歯痒いような心地になる。
「まったく、むりをしおって」
 少し寝苦しいのかもしれない。眉間のあたりにうっすら寄った皺を指先で撫でて――そこはやはり、じんわりと熱を帯びているのだ――影二はしばらくユナの寝顔を見つめていた。
「……ねがおも悪くはないが、やはり起きているときがいちばんだな」
「おきてるときに言ってやればいいのに」
 思いもよらず声が返ってきたことに再びぎょっとして、顔を上げる。
(オレとしたことが、けはいに気付かぬとは!)
 今日はこんなことばかりだ。ユナの方にばかり気を取られて、他が疎かになっているのかもしれない。
 おのれの修行不足を密かに歯噛みしつつ。
「くさなぎ」
 相手の名を呼ぶ声に険を混ぜる。
 ひまわり組の草薙京。年少の頃に同じクラスで、しょっちゅう担任の八神庵の手をわずらわせていた悪ガキだ。
「赤ちゃん組の女とばかりあそんでいるやつが、めずらしいこともあるものだ」
「べつに、オレがなにしてたっていいだろ」
 苦い顔で、京。
「それを言うなら、おたがいさまだ」
「そりゃそうだな」
 大人のように肩をすくめてみせる、そういう生意気なところが好きではないのだ。自分のことを棚に上げて、影二は顔をしかめた。
「で、けっきょくなんの用だ?」
 訊き返されると思っていなかったわけでもないだろうに、京がたじろぐ。その瞬間、影二はぴんと来た。ははあ、と唇の端をつり上げる。
「女だな?」
「お前、こどものくせにそういう言い方やめろよ」
「それもおたがいさまだ」
「ほんと、へりくつばっか言いやがって。オレの組のククリといいしょうぶだぜ」
 京はぼやきながら、それでも少し躊躇うように間を空けたが――
「しのが花をながめてたから」
 ややあって、ぽつりとそう言った。
「だから?」
「もっとめずらしいやつ、ねえかなって」
「女にこびるのか」
「ばか。かいしょーってやつだよ」
「はっ、なんじゃくものめ」
 鼻で笑う影二に、京はこちらもふんと鼻を鳴らした。そればかりか、大人をからかうときに見せるにやあっとした笑みを浮かべて言い返してくる。
「そんなこと言って、ユナだって気のきく男の方が好きだったりしてな」
「ユナはうわきものではないぞ」
「でも、女ってそういうのにまいっちまうんだって聞いたぜ。つまりさ、ちょろいんだって」
「だれから」
「ククリ」
「……とたんにしんぴょうせいが失せたな」
 呟くと、京は痛いところを突かれた顔をした。気まずい沈黙が流れる。
「じゃ、じゃあな。オレ、いそがしいから!」
 弾かれたように走っていく京の背中を見送って、影二はちらりとユナの寝顔に視線を落とした。彼女は男同士の会話にも目を覚ますことなく、すよすよ眠っている。それだけ具合が悪いということなのだろう。
「そうだな。遠足の思い出がひるねだけというのは……ユナがかわいそうだ」
 ひとつ頷くと、影二は立ち上がった。

 ***

 ユナに似合う花は、なんだろう。
 草むらを掻き分けながら、影二は考える。
 ――ふわふわの綿毛を付けるタンポポか?
 いや、違う。
 彼女はあれでいて芯の強い女だ。
 ――ならば潔癖に咲くクチナシか?
 いや、違う。クチナシの香りは強すぎる。
 芝桜、クレマチス、金雀枝、ホタルブクロ、薔薇、デルフィニウム……この時期に咲く花はたくさんあるが、どれもいまいちピンとは来ない。存在感がありすぎもせず、地味すぎもせず、艶やかすぎもせず、また子供っぽすぎもせず、ちょうどよくなくてはならない。
「ぞんがいにワガママですね」
 そう言ったのは近くで同じように花を探していたハインだ。ユナやビリーと同じギース・ハワードの施設出身だが、彼らより京やククリと連んでいることの方が多い。影二とは同じ歳だが生まれつき目がよくないのか、それともただのファッションか、気取った眼鏡をかけている――言葉遣いも慇懃で、ビリーとは違う意味でいけ好かない。
「あなたは誰のことも気にいらないんじゃあないですか?」
 心の中で呟いたつもりが声に出てしまっていたらしい。影二は露骨に顔をしかめた。
「そんなことはない。父上とユナは別だ」
「ふたりだけ」
「ふたりもいれば十分だろう」
「まあ、たしかに。わたくしも同じようなものですが」
 言いながらハインはデルフィニウムに触れ、品定めするようにためつすがめつした。青いイルカのような形をした蕾が鈴なりについている、そんな花だ。赤ちゃん組にはぴったりかもなと呟く影二に、ハインは少し眉をひそめた。
「しのさまは、あなたが思うような赤ちゃんではありませんよ」
「ほう。うわさに聞いたとおりしゅうしんと見える」
「それも、あなたほどではと言わせていただきましょう」
 やはり逐一癪に障る男だ。
 彼は涼しげな顔でデルフィニウムから手を離すと、向かいに植えられていた紫の花にちらりと視線を移した。
「アイリスは、少々じみですね」
「あやめか」
「ここには、わたくしの求める花はないようですのでしつれいいたします」
 ハインは丁寧に一礼し、踵を返していく。
「ああいうのを、はなもちならないと言うのだろうな」
 呆れ半分、感心も半分。
 呟いてから、影二は彼が気にも留めなかった菖蒲の花に目を向けた。すっとした茎の先に、フリルのような花がついている。女らしい、けれど可愛すぎない花だ。それでいて根本からゆるく弧を描いた葉は刀のような鋭さを帯びている。影二好みだ。
「オレのこのみということは、ユナに似ているということだ」
 ハインが留まっていたのなら――呆れたこじつけですね――くらいのことは言ったのかもしれない。けれど彼が去った今、その場に残されているのはものを言わぬ花のみである。影二が小振りのモーションで霞み斬りを放つと、菖蒲の花は根本からすぱっと切れた。断面の美しさに満足しながら、ユナの許へ戻る。

 ***

 傍を離れていたのは、ほんの十五分か二十分ほどに過ぎなかったが――
 ユナは目を覚ましていた。
「えいじくん?」
 心細そうな顔で影二のリュックを抱えている。そんな彼女を見ていたらたまらなくなってしまった。いじらしい女だ、と思いながら影二はユナの隣に腰を下ろした。
「ビリーやハインたちとあそべもせず、みやげのひとつもないのではあんまりかと思ったのでな」
 いくらか低い位置にある彼女の青い目を見つめ、ほんの少し顔をしかめたのは言いわけじみたように聞こえたのではないかと気になったからだ。
 けれどユナは首を振ると、小声で言った。
「そんなことない。えいじくんがいるから」
「ああ」
 そう言うとは思っていた――と、みなまでは言わずに。
 影二は後ろ手に持っていたものをずいと差し出した。例の菖蒲だ。ひらひらとした大きな青い花弁が外側に向かって開いている。ユナはそれを受け取ると静かに顔を近付けて、すんすん匂いを嗅いでいた。淡い銀にも見える灰色の髪が耳の横から落ちて、鮮やかな青に光を落とす。
(きれいな……)
 光景だ。ユナとはじめて出会った日のことをなんとはなしに思い出し、影二は少し俯いた。
「あめが上がったあとみたいな匂いがする」
「……いやか」
「ううん。すき。なんてお花?」
「あやめ」
 短く答える。
 それを聞くとユナは嬉しそうに、あやめと繰り返した。
「お水をあげたらずっと咲いてるかな?」
「それよりおし花にするとよい」
「おしばな?」
「作り方をおしえてやる。ねつが下がったら」
「えへへ、やることたくさんあるね」
 はにかむユナを見ていたら、影二も嬉しくなってしまった。
「ああ、ひまなどさせぬ。だから早くなおせ」
「うん」
 花を抱えたまま、ぽて……と寄りかかってくる彼女の頭を抱え、ぺたぺたと撫でる。その耳許でもう一度だけ「早くなおせよ」と囁いて――
「如月。今日は随分大人しいと思ったら、そういうことか」
「げっ、八神……」
 声に振り返ると、仁王立ちしている庵の姿があった。やり取りの一部か、でなければ一部始終かを、聞かれていたらしい。彼は肩を怒らせたまま影二の腕の中からひょいとユナを取り上げると、副担任の神楽ちづるに声をかけた。
「神楽」
「おい、八神!ユナをかえさぬか!八神、この!ユナにきやすくしおって……!」
「神楽、オーエンを連れて先に園へ戻れ。それからギース・ハワードに連絡を……」
「はなしを聞け。ええい、てんまきゃく!」
 勢いを付けて脛を蹴り付けてやると、さすがに多少は効いたのだろう。
「このっ、クソガキ――」
「えんじに向かってクソガキとはかたるに落ちたな!」
「神楽、ついでにこれも連れていけ。うるさくて敵わん」
 園児二人を押しつけられたちづるは、慣れているとでもいうふうに溜息をひとつ零すと二人を抱えて歩き出したのだった。







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