指輪の行方

「お前の部屋に行きたい」
 と、影二に言われたときユナは少なからず困惑した。日直の仕事で放課後二人きりになって、八年ぶりの会話を交わした――あの和解から数日。とはいえ空白の日々に共通の話題も失って、友人と呼ぶにはいまだ微妙な距離感である。ユナは相変わらずビリーたちと一緒にいることの方が多かったし、影二も別のクラスメイトと話しているか、ひとり気難しい顔で窓の外を眺めていることが多い。
(そりゃあ、仲直りしたいって思ってたけど……さ)
 それにしても、いきなり部屋に来たいとは。
「いいけど、わたし一人暮らしだよ?」
「ああ。知っている」
「知ってるんだ……」
 意外に思って呟いた。その瞬間に影二は少し気まずそうな顔をしたが。
「ビリーのやつがよく訪ねていると聞いた」
「うん。リリィちゃんが作ったおかずをお裾分けに来てくれるから」
「ならば、オレが行ってはいけない道理はない」
「それはそうだけど……」
「嫌ならば無理強いはせぬが」
 言葉とは裏腹に声を尖らせるようなところは子供の頃から変わらない。如月流の総帥に随分と可愛がられて育ったせいか、でなければ最強を掲げる如月流の理念のせいか、思い通りにならないことはないと無意識に、あるいは意識的に、信じているような節がある。そういうところが眩しいんだよねと――ビリーに言えば正気を疑われそうなことを――口の中で呟いて、ユナは胸の前で両手を挙げた。
 ほとんど降服に近い形で、告げる。
「そうじゃなくてさ。緊張するじゃん。影二が相手だと、ドーしたって意識するし」
「…………」
 その言葉の意味をたっぷり十数秒かけて考え、そして理解したのだろう。影二は珍しく顔を紅潮させると、パッと目を逸らしたのだった。

   ***

 まあ、多少気まずくなったとて前言撤回するような幼馴染みではない。親密に過ごした幼い日より交流を絶った歳月の方が長かったとしても、それくらいのことは十分に分かっていた。
「せめて、カーテンの色くらいは変えるんだったな」
 言葉少なな影二を部屋に招き入れて、ユナは少しだけ後悔した。一人暮らしをはじめて一年と少し。いまだに我が城とは言いがたい部屋の中は、単身者向けのワンルームであることを抜きにしても殺風景だ。クローゼットの他は最低限の家電と、ライティングデスク、そしてベッドしかない。
 くすんだ緑色のカーテンを眺めていたら、思わずそんな言葉が出た。影二はこちらをちらと見ると「青の方がよいな」と言った。
「もうちょっと女の子らしい部屋を想像してたよね」
「他の女の部屋など入ったことがないから分からん」
 怒ったように(もしかしたら照れていたのかもしれないが)そう言って、影二は部屋を見回している。
 まるで殺人現場で証拠を探す警官みたいだなと思いながら、ユナは玄関へ引き返した。玄関と部屋とを繋ぐ廊下と呼ぶのも躊躇われるような通路のところに、申し訳程度のキッチンがある。備え付けられているのは電気式のコンロひとつだけで、料理をするには不便だが、湯を沸かすくらいならできる。
「影二、珈琲でいい? それとも紅茶?」
「緑茶はないのか」
「ないこともないけど、うっすいよコレ」
「では珈琲でいい。今度、美味いやつを持ってくる」
 当然のように通うつもりらしい。次までに青いカーテンを選んでおこうと思いながらインスタントの珈琲を淹れて戻ると、影二はライティングデスクのところでじっとなにかを見つめていた。
「どうしたの」
 ひょいと覗き込む。デスクの上には小さなクマのぬいぐるみがある――
 その首からチェーンに通した玩具の指輪がぶら下がっているのを見て、ユナは頬を引き攣らせた。そこにあるのが当たり前になっていたせいで、すっかり忘れていたのだ。
「あ、あの、さ」
 影二の指先が、玩具の指輪を掠める。
「未練っぽいよね。ごめん」
 うまい言い訳を見つけられないまま、影二の反応を待つ。と、彼はユナの手からふたつのカップを取り上げてデスクの上に置いた。
「影二?」
「そんな顔をされては、堪らぬ」
 ぬいぐるみの首から外した指輪を、ユナの薬指に押し当てる。もっとも、玩具の輪はユナの指には小さすぎて小指にすら入りそうになかったが。収まるべき場所に収まらなくなってしまった指輪とともに感情まで持て余したような苦笑いで、影二は言った。
「さすがにあの頃のようにはいかんな」
 それはきっと指輪だけにかかった言葉ではなかったのだろう。ユナも少しだけまなざしを伏せた。
「そりゃあ、いつまでも子供のままじゃないからね」
 あるいは、もっとごねてみせた方がよかったのかもしれない。影二は唇を尖らせている。
「知ったふうなことを」
「うん。可愛げ、なかったね」
 今日は、そんなところばかり見せている気がする。
(なんか、うまくいかないな……)
 すっかり落ち込んだ気分で、ユナは溜息を呑み込んだ。影二の視線が居たたまれない。
 と、
「勝手に結論を出すな」
 すぐ耳元で声がした。
 ふっと目線を上げると、すぐ目の前に影二の顔があった。耳元に唇を寄せてくる彼と、酷く近い位置で目が合う。忍道の後継者らしく呼吸にはいっさいの無駄がないが、そのせいでかえってくすぐったい。
「え、えいじ、なに……?」
 身をよじるユナに、彼は腹立たしそうに囁いた。
「これも、今度持ってきてやる。ぴったりのやつを。未練に思っていたのは、お前だけではないぞ」




TOP