04

 まだなにも知らない無邪気な幼子だった頃。世界は希望であふれていた。
 皆がギース様と呼び恐れ敬うギース・ハワードが気紛れにはじめた児童養護施設は随分と環境がよくて――場合によっては家族がいる子たちよりも――衣食住に不自由しなかったし、兄貴分のビリーくんがいつだって一緒だった。
「おまえはトロいから、めんどー見てやるよ」
 そういうわけで平和な、けれど閉じられた施設の中でわたしは物心ついてからの二年、三年を誰にも虐められることなくのんびりと謳歌していたのだ。

 そうでなくなったのは、幼稚園に入園して一年が経った頃。彼に出会った。
 如月影二。鶏につつき回されていた間抜けなわたしを助けて、手を差し出してくれた。その日のことは、今でもはっきり覚えている。
 それまでもビリーくんに散々助けられていたというのに、幼いわたしはその瞬間どうしてか、ころっと影二に恋してしまったのだった。

   ***

「お前、まだ引きずってんのか?」
 と、ビリーくんが呆れ気味に呟く。
「そんなんじゃないよ」
 影二を見ていたことに気付かれてしまった気まずさを誤魔化すように、わたしは大きく頭を振った。
 悩みなんてひとつもなかった幼い日々はあっという間に過ぎ去って、今ではみんな高校生だ。ビリーくんは今もわたしの隣でお兄ちゃん然と振る舞っている。少し後に生まれた実妹のリリィちゃんに対してもよく世話を焼いているから、根っからの世話好きなんだと思う。進路調査の第一希望だけ埋めて悩んでいた彼に「幼稚園のセンセーなんていいんじゃないカナ」って勧めてみたこともあるくらい。八神と同じ職業は嫌だって却下されちゃったけど。
 おっと脱線。
 高校生にもなると、環境はほんの少しだけ変わった。施設で保護を受けられるのが義務教育期間中だけってことで、ビリーくんとわたしは中学卒業と同時に実家のように思っていた施設からも卒業した。今はギース様のところでバイトをしながら、お互い一人暮らしをしている。
 ビリーくんじゃないけど、わたしも多分大学まで行って将来はハワード・コネクションでギース様のために働くんだと思う。施設で育った子供たちは、大抵がそういう進路を選ぶ。他のビジョンが見えないんだよ。
 それが社会のシステムだって、みんな分かってる。いつまでも無邪気な子供じゃいられない。遅かれ早かれ、世の中にはドーニモならないことがあるって思い知らされる。
 小学校三年生の頃だったかな。
 当時のわたしはまだ影二にべったりで、幼い日の約束がいつまでも有効なんだって信じてた。そういうのって当然からかわれるよね。
 同じ年の男の子なんかは特に面白がって。
 ――「いつも一緒にいて変なの」
 ――「影二のやつユナのカレシなんだぜ」
 ――「うわ、まじかよ! なんでユナ?」
 最後のは失礼じゃない?
 揶揄された影二はすっごく怒ってさ。
「彼氏なはずがあるか。こんなやつ大嫌いだ」
 他にも一言、二言言われたような気がするけど、あんまり覚えてないな。晴天の霹靂っていうか、自分の鈍さに気付いて衝撃を受けたっていうか。
 同級生にからかわれてムキになったっていうのは、あるのかも。難しい年頃だしね、今思えば。
 でも、好きだって言われたことがなかったのも確かなんだよ。それで大嫌いだでしょ?
 怒った顔した影二の後ろ姿をボーゼンと見送って、それきり。一晩中泣いて、泣いて、泣きすぎて熱まで出して二日も学校を休んだっていうのは今となっては笑い話でしかない。
 すっかり熱が下がって起きられるようになったとき、わたしは少し大人になっていた。ギース様がたびたび口約束は信用するなと言っていた意味を知った。
 みんな、本音とか隠してうまくやってるんだよね。その場のノリとか雰囲気とか、ちゃんと読んでさ。
 わたしも、前よりずっと慎重になった。そうしたら、世界はもうキラキラと輝いてはいなかった。
 失恋のショックでずる休みしてるんだろうって言った子を、ビリーくんがぼこぼこにしたんだって話は後から聞いた。だからいつまでも揶揄されることはなかったけど、施設の仲間は結局のところみんなどこかしら浮いていて、わたしも彼らと一緒にいることの方が多くなった。収まるところに収まったっていうか。
 それから残りの小学校生活、中学校生活も、影二とはろくに喋らないまま今に至る――そんなカンジ。

   ***

「せめて進学先が別だったらよかったのにな」
「めちゃくちゃ引きずってんじゃねえか」
「引きずってはいないけど、意識はするよ」
 クラスメイトと喋ってる影二は背が伸びて、すっかり大人に差し掛かった男の子だ。
「悔しいけどさあ、カッコイーじゃん?」
「お前のカッコイイの基準、おかしいだろ」
「ビリーくんもカッコイーよ」
「当然だ。つうか如月と同列に語るな」
「オトコノコは難しいね……」
 分かったようなこと言うなって言われるかなって思ったけど、ビリーくんは溜息を零しただけだった。それから小言の代わりに、一言。
「昔のこと思い出して眺めるくらいならいいけどよ、深入りだけはやめておけよ。アイツ、相変わらず素直じゃねえんだろうし」
「うん。そうするのがいいんだろうね」
「せめて嘘でも、分かったって言えよ」
 それから一言、二言、今度は耳許で(今日の夕飯はリリィがカレー作るから夜に持ってくって)囁いてさっと自分の席に戻っていく。その後ろ姿を見送って、もう一度だけ影二の方を見る。
 目、が……
 ――あった?
 って錯覚しそうになったけど、多分偶然。
 時間にしたら一秒とか二秒、それくらい。
 邂逅の一瞬に影二の顔がどことなく切なそうに見えただとか、そういうのはきっと全部気のせいで、少しでも期待したら痛い目を見る。
 そういうものだ。
 開きそうになった記憶の蓋を無理やり押さえつけて、なんでもないフリして椅子に座る。次の授業の支度をしながら、それでもさっきの瞬間を思うと願わずにはいられない。
(仲直り、できたらいいよね……)
 いつかってほど遠い先の話じゃなくて、社会人になって完全に進路が違っちゃう前に。同じ学校に通ってるうちに、せめて天気の話ができるくらいにはなれたらいいな――なんてね!
 他愛もない。けどポジティブで馬鹿げた願望に少しだけ笑って、わたしはひそりと目を伏せた。




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