03

「ばら組のあでるくんはね、あきらちゃんのことが大好きなんだって。はいんくんもね、年少さんのしのちゃんのことが好きなの。えいじくんは、わたしのこと好き?」
 最近は女同士で遊んでいることも増えたかと思ったら、突然これだ。ふにゃふにゃ顔のユナからそんな質問をぶつけられた影二は、面食らって目をぱちぱちまたたかせた。
 薔薇組の名物カップル(アーデルハイドがうまく言えないので、ユナは彼のことをアデルくんなどと呼ぶ!)はともかく、澄まし顔のハインがよりにもよって赤ちゃん組の女の子に惚れているなんて初耳だ。
「おんなは三人よればかしましいと言うが、まさしくだな。お前たちはそんな話ばかりしているのか!」
「かしまし?」
「うるさいという意味だ」
「うるさくしてないよ。ナイショ話だから」
「オレに言っておいて、ないしょもなにもないだろ」
「えいじくんはいいの」
 女はすぐこれだ!
 と思いつつも特に悪い気はしないので、影二は揶揄を喉の奥に戻した。なにかと言えば好きな子の話ばかりしている女同士の内緒話。
 ユナが他の子に臆面もなく、
「わたしはね、えいじくんのことが好き!」
 と言っているのだろうと思うとむず痒いような嬉しいような、そんな気持ちになる。
「それで?」
「うん?」
「えいじくんは?」
 さっきよりもいっそう目をキラキラさせながら、ユナ。赤ちゃん組の癖が抜けきらない彼女は、いつだって言葉足らずだ。少し考えて最初の会話を思い出した影二は、ほんの少しだけたじろいだ。
「それは……」
 そんな分かりきったことを言わねばならんのか、という気持ちでユナを見る。こういうときばかり変に察しのいい彼女は、大きく頷いた。
「それとも……ほかに好きな子、いる?」
 まったく女というやつは!
 どこでそういった駆け引きを覚えるのだろう?
「いるはずがあるか!」
 声を荒らげかけて慌てて口を押さえたのは、そこが秘密の場所だったからだ。
 幼稚園の裏手にある、建物と隣の敷地との隙間。エアコンの室外機や、バルブなんかが突き出ていて少し風情には欠けるが、誰にも邪魔をされたくないときにはちょうどいい。
 あたりを見回して誰も駆けつけていないことを確かめると、影二はひそかに胸を撫で下ろした。
「いいか。男は、おいそれと好きなものを言わないのだ。敵にさかてに取られぬともかぎらぬ」
 これは養父からの受け売りだが、ユナには少し難しかったかもしれない。首を傾げている彼女の周りに疑問符がたくさん浮かんでいるのが見えたような気がして、影二は額を押さえた。
「きさらぎ流のよめがそれでは困るぞ……」
「えいじくん困るの? ユナ、どうしたらいい?」
「もっとべんきょうをして、体もきたえて、いい女になってもらわねば。はなよめ修行だ」
 言いながらユナの両手を取ったのは、里の男女が以前そうして睦み合っているのを見たからだった。男の方が女の薬指に指輪をはめてやっていた。
 その意味を養父に教えてもらったときから、ずっとユナにもそうしてやりたいと思っていたのだ。
「オレは好きだとは言わぬが、やくそくはしてやる」
 呟いて、スモッグのポケットから指輪を取り出す。
 ユナの目と同じ、水色のきらきらした宝石が付いている――おもちゃではあるが――指輪をユナの小さな薬指にはめてやりながら、影二は言った。
「オレはいつか、きさらぎ流を継ぐ」
「うん」
 ユナは指先から視線を上げて影二の目を見つめると、しおらしく頷いた。どうしようもなくお気楽だが、こういうときは驚くほど空気を読む女だ。
 かえって緊張しながら、影二は続けた。
「だれよりも強くなる」
「なれるよ。えいじくんなら」
 また頷いたユナが、向かい合わせにぴたりと掌を合わせてくる。鍛錬をしていない彼女の手は子供らしく柔らかで、頼りない。
 けれど、じんわりあたたかいのだ。誰の手よりも。
「ああ。そうしたら、オレが守ってやる」
「わたしを?」
「お前のことだけを」
「ほんと?」
「うそはつかぬ。よめにしてやるとも言っただろ」
「じゃあ、ゆびきり……」
 ――ね。
 と言おうとして困ったような顔をしたのは、両手が塞がっていることに気付いたからだろう。
 合わさったままの手を見下ろしておろおろしているユナに、影二は声を上げて笑った。
「おい、ユナ」
 まだ困っている彼女の唇に、なんの前触れもなくそっと唇を重ねる。はじめて交わした口付けは、掌を重ねるよりもずっとドキドキして、いっそう胸がいっぱいになった。
「やくそくだ。だから、うわきはするなよ」
 呆然としているユナに釘を刺す。
 次の瞬間、ユナは弾かれたように首を振った。
「し、しないよ!」
「やくそくだ」
「うん、やくそく」
 指切りの代わりに、もう一度だけ唇を重ねる。それはとある少女と少年の、もっとも幸せな頃の記憶だった。

  ***

(つまり、あの頃はまだ幾分かまともだったわけだ)
 如月影二は窓の外を眺めながら、胸のうちで毒づいた。晴れた空を見るといやが上にも思い出すのは、あの幼馴染みの瞳だ。
 空の色をそのまま塗り込めたような青い目は、あの頃はいつも自分を映していた――気のせいではなく。
 そうでなくなったのがいつだったかは、思い出したくもない。忘れるわけにもいかないが。
「八年だ」
 声に出して、呟く。
 子供同士のくだらない見栄と意地の張り合いから、その幼馴染みを手酷く振ってしまったのは小学校も中学年に上がった頃の話だ。
 それから今に至るまで八年の間、まともに話せていない。影二は幼い頃よりずっと意固地になった自分を自覚していたし、ユナも少なからず変わった。
 ギース・ハワードの施設で育った子供たちのコミュニティに落ち着いて、相応以上に大人びてしまった。一方で、ビリー・カーンとは今も兄妹のように連んでいる。付き合っているという話は聞かないが、幼稚園の頃より親密だ。
 その光景に苛立ったとて、どうしようもない。自業自得、以外の言葉も見つからない。
 約束を先に破ったのは、子供だった自分だ。
 諦めたのは、先に大人になってしまった彼女だ。
 なんとはなしに、唇に触れる。果たされなかった約束としあわせの残滓が、今もまだそこに留まっているような気がする。
「やはり、指切りにしておくべきだったな」
 独りごちて、影二は音もなく溜息を零した。




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