02

 穏やかな昼下がり。正確には午後十四時。
 園には保護者たちが迎えに来る。あるいは園バスを利用している子供もいる。いずれにせよ、それぞれ手を振って「またね」と別れる。
 その時間が、如月影二は嫌いである。
 影二には嫌いなものが多い。担任の八神庵に、甘いお菓子、幼稚園に向かう道にある極限流道場、やかましい女の子、ちょっと触ったら死んでしまいそうな動物の赤ちゃん、エトセトラエトセトラ……物心付いたときから感情の振り分けが極端なので、苦手だと感じたものや扱いが分からないものについても、すぐに「これはきらいだ」とそっぽを向いてしまう。その悪癖が直るのはもう少しだけ大人になった頃の話だ。
 それはともかく――
「えいじくん、またね。あしたも遊んでね!」
 ユナが笑顔で手を振って、ギースの秘書に連れられていく。彼女がギース・ハワードの児童養護施設に預けられていることは、出会った日に聞いた。
 それは仕方がない。
 ユナが悪いわけではないのだが。
「じゃあな、如月」
 その隣で当然のように手を振っているビリー・カーンの姿を見ると、はらわたが煮えくり返ってしまう。鈍いユナは影二の怒りにも気付かず、ひまわり組のハインと三人、秘書に促されるようにして車に乗せられて帰っていく。
「おのれ、ビリー・カーン!」
 地団駄踏みながら、影二は険悪に唸った。
 廊下で友人に別れを告げていたクラスメイトのひとりがびくっと飛び上がったが、気にも留めず床を蹴る。と、そこへ担任の八神庵が呼びに来た。
「おい、如月。父親が迎えに来たぞ。いつまでも怒っていないで早く行け」
 その呆れ顔も気に入らないのだ。
「うるさい! あすも来てやるから首をあらって待っているのだな!」
 庵の隣をそんな挨拶とともに駆け抜け、ぷんぷん怒りながら園庭に向かう。
「お帰り、影二」
 聡明な養父は、この程度のことでおろおろしたりはしない。ほんの少しだけ困ったような顔をするだけだ。差し出された手を当たり前のように握り返すと、影二は不機嫌に頷いた。
「ただいま、父上」
「今日はどうだった?」
 なにを咎めるでもなく、見透かすでもない。
 穏やかに訊ねられて、かえって決まりが悪くなる。
 それでようやく怒るのをやめて、影二は呟いた。
「だめでした」
「そうか」
「ビリーはずるい」
 帰り際のビリーを思い出して、もう一度ぎりぎり歯軋りする――そうだ。ビリーはずるい。家が同じだからって、いっしょに帰らなくともよいではないか。しょっけんらんようだ――と、一息でまくし立てて。
「ユナはせっしゃの方が好きなのに。かわいそうだ」
「……」
 これには如月流の総帥もさすがに苦笑いを隠しきれなかったが、影二の恨めしげな視線に気付くと咳払いで誤魔化した。
「ああ――ならば、そうだな」
 わたしも大概に過保護がすぎるかと、やはり苦く笑いながら気難しい息子に耳打ちする。
 それを聞くと、影二はパッと顔を明るくした。

 ***

 翌日、影二は機嫌がよかった。それはもう、一日上機嫌だった。日に一度は癇癪を起こしてユナを泣かせるところを一日中ニコニコしていたので、担任の八神庵が訝ったほどだ。
「如月、なにか企んでいるのか」
「しつれいなやつめ。せっしゃはなにも企んでおらぬ!」
「……怪我をするようなことだけはやめておけ。保護者からクレームが入る。なにせ親バカばかりだ」
「くれーむなどに屈するとはなんじゃくものめ」
 庵は鼻の頭に皺を寄せたが、それ以上はなにも言わなかった。面倒事を起こされなければいい、ということなのだろう。昼食と午後のレクリエーションを終えて、いつもの――午後十四時。
 昼過ぎからもうずっとそわそわしていた影二は、帰りの挨拶もそこそこにユナの席へ駆け寄った。
 鞄に荷物を詰め込んでいたユナが、顔を上げる。その頭に帽子をかぶせてやりながら、影二は言った。
「ユナ。ゆな・なんしぃ・おーえん」
 やたらと気取って長ったらしい彼女の名前が、しかし影二は嫌いではないのだ。口に出すと少しだけ大人になったような気分になれる。なにより、他の口下手な赤ちゃんどもは彼女の名前を噛まずに言えない。
(オレだけだ。いや、オレだけということもないが、家族みたいなビリーのやつはおいておくとして、やっぱりオレはユナのとくべつなのだ!)
 そんな優越感とともにユナを見下ろす。
 そうして、
「オレといっしょに帰るぞ。送ってやる」
 告げると、ユナは不思議そうな顔をした。
「えいじくんと? でも、とおまわりになるよ?」
「たんれんだ」
「たんれん?」
「足こしをきたえる。そのうち、お前よりずっと早く走れるようになるからたのしみにしておけ!」
 ふふんと胸を張って、手を突き出す。
 それでようやく用件を呑み込んだらしいユナが、満面の笑みで手を握り返してきた。
「かえりみちもいっしょなんだね。うれしいな!」
「ああ。今日は、バイバイはなしだ」
 バイバイどころか、いつもは手を振る彼女に別れの挨拶もせず怒り顔で見送るばかりだったのだが。
「おい、ビリー」
「なんだよ、きさらぎ」
 帰り支度の手を止めて面倒くさそうに振り返ってくる悪友に、影二はやや反り返り気味に告げた。
「また、明日な!」
「めずらしーな。つうか、ユナ? なんで?」
「ユナは今日からせっしゃと帰るのだ!」
「へえ。よかったな、ユナ。あんま遅くなるなよー」
 ビリーはあっさり手を振って帰り支度を終えると、いつものように迎えの秘書に連れられていった。
「うん。またあとでね、ビリーくん」
 ギースの秘書には養父から説明をしたらしい(では頼みます、と例の秘書が丁寧に頭を下げるのが見えた)車に乗り込む彼らを見送って――
「ふん……ビリーのやつ、きょせいを張ったな!」
 若干の肩透かしを食らいつつも、影二はおおむね満足して歩き出した。少し離れてついてくる養父には聞こえないよう、隣のユナに小声で訊ねる。
「おい、ユナ」
「なあに」
「オレと八神と、どちらの方が好きだ?」
「えいじくん」
「だろうな。ではオレとギース・ハワードでは」
「えいじくん」
「じゃあ、ビリー・カーンと比べたらどうだ?」
 そこでユナははじめて躊躇うようなそぶりを見せたが、ややあってこっそりと耳許で囁いてきた。
「あのね、だれにも言っちゃだめだよ」
「ああ」
「わたしね、えいじくんが大好きなの」
「いちばんか」
「うん、いちばん! いちばん、大好き!」
 その瞬間のはにかむ笑顔は、自分だけのものだ。
 幼心にそう思って、影二はぎこちなく頷いた。
「そうか」
 言いたいことはもっとあったはずなのに、どうしてか胸のうちに言葉が見つからなかったのだ。にやけそうになる口元を子供なりに引きしめて、繋いだ手にほんの少しだけ力をこめる。
「ならば、よめにしてやってもいい」
「えいじくんの?」
 ユナはきらきらと目を輝かせている。ちょうど、よく晴れた今日の空と同じ具合だ。そこに自分の姿だけが映っていることに気を良くしながら、影二は言った。
「ああ。だから、ほかのやつには二度と好きだなどと言うな。言っていいのは、オレにだけだ」
「うん!」
 ふにゃふにゃと笑うユナは、その独占欲が意味するところをまったく分かっていないように見える。
 ――なにを言っても頷きそうだな、こやつは。
 不安は、顔に出てしまったのかもしれない。
 ユナは珍しく不服そうな顔をすると、影二の手の中で指にきゅっと力を込めて――もう一度囁いた。
「えいじくんだけだよ」
 その言葉の響きの、甘ったるいことと言ったら!
「そのことば、ゆめゆめ忘れるなよ」
 顔の熱を冷ますように片手でぱたぱたと扇ぎながら、影二はちらりと後ろを見た。
 如月流の総帥は子供同士のませた会話に相好を崩していたが、影二の視線に気付くと目を細めて頷いてみせたのだった。




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