01

 それは多分、オレが己の力の証明なく手に入れることのできた、唯一のものなのだ。

 はじめて彼女を見たとき、なんと頼りない生きものかとオレは溜息をこぼさずにいられなかった。養父の所有する如月邸と比べたら随分と狭い園の庭で、逃げ出した鶏につつき回されていたそれ――もとい、彼女。
 ユナ・ナンシィ・オーエン。
 涙を溜めた空色の瞳があまりにも珍しくて、あまりにも美しくて、そんな取るに足らない理由から、オレは彼女を助けてやったのだった。

 その日は確かに特別ではあった。
 上からは赤ちゃん組などと揶揄されていた年少組から年中組に進級して、最初の登園日。親と離れられずに泣いている後輩を鼻で笑いながら門をくぐると、如月影二は少し眉をひそめた。見慣れたはずの光景が、どことなく普段と違うように感じられたのだ。
 一周二百メートルの運動場。その脇にある砂場――砂の入れ替え作業のため、今は立ち入り禁止になっている(保育士、八神庵の主張で前年度から定期的に焼却済みの抗菌砂が入れられることになった)それから花壇……と順番に見ていって。
「あ」
 影二は思わず声を上げた。鶏の飼育小屋が開けっ放しになっている。飼育当番の保育士が鍵をかけ忘れたのだろう。そういうことは稀にある。
 雌鳥たちは小屋の外に目もくれず呑気に餌を啄んでいるが、雄鳥の一羽がいなかった。一番凶暴で、しょっちゅう飼育当番を追いかけているやつだ。
 影二がそのことに気付いたとき、近くにあった遊具の陰から悲鳴が聞こえてきた。
(赤ちゃん組か?)
 そう感じたのは、声が幼かったからだ。
「ひえっ、やめて! やめてってばあ」
 ひょいと覗き込むと、青い目の少女が泣きべそをかきながら蹲っている。癖の強い灰色の髪は雄鳥につつき回されて酷い有様だった。さすがに見かねて、影二は腕を振り上げた。
「かすみぎりっ!」
 目に見えない斬撃が空を切り裂く――とはいえ、子供の精度では雄鳥を数メートル先にはね飛ばすのが精々だ。大したダメージはなさそうだが驚きはしたのか、そのまま飼育小屋に逃げ帰っていく。
「ふっ……せっしゃの敵ではない!」
「すごい……」
 と呟いたのは、あの泣き虫女だろう。
日頃は乱暴者とたしなめられることが多いだけに少しだけ気を良くして、影二は彼女に向き直った。
 ――そういう貴様はなんじゃくものだな。
 養父を真似て説教のひとつでもしてやろうとしたところで。けれど台詞は喉の奥に引っかかって出てこなかった。
 見上げてくる瞳は空の青を映していたにしても、あまりに透き通って、あまりに鮮やかで、あまりに――
(あまりに、きれいだ)
 ぼんやり見とれてしまった気まずさを誤魔化すように、影二はずいと片手を突き出した。
「立てるか」
 少女はきょとんと影二の顔を見つめていたが、ややあって躊躇いがちに手を取った。
 その掌のなんと柔らかいことか!
 影二は酷く驚いた。
「たんれんなどしたこともないのだろうな」
「かけっこのれんしゅはしてるよ。びりーくんやはいんくんと」
「ビリー? ビリー・カーンか」
「そう」
「おまえは、あやつのなんだ。もしや……」
 噂の妹か、と言いかけてやめる。詰め寄って気付いたのだ。彼女のスモッグにはワッペンが貼り付けられている。年中のチューリップ組所属を示す名札だ。
 そこには、
 ゆな・なんしぃ・おーえん
 と、丁寧な字で書き付けられていた
「オレとおなじ組だ」
 鞄の中からチューリップ型のワッペンを取りだして、影二は呟いた。恰好悪いと散々に駄々をこねた結果、如月家当主である養父もさすがに困り果てて匙を投げた。というより、養父には幼い頃から影二の我が侭をたしなめきれないようなところがある。
 生まれて間もなくで亡くなった実子と影二がどことなく似ているからではないか――と里の者たちは噂するが、影二にとってはあまり愉快な話ではない。
 たとえば一言でも怒ってくれたのなら。
 と思いつつ。引き際も分からないまま、いつも気まずくて虚しい勝利を得るのだ。今は、どうでもいいことではあるが。
 覗き込んできたユナがぱっと顔を輝かせた。
「おなじ組だね! えっと、えいじくん?」
「ああ」
「わたしね、ゆな」
「見ればわかる。ゆな・なんしぃ・おーえん」
 耳に馴染まない単語をたどたどしく、それでも精一杯偉そうに読み上げると、ユナは少しはにかんだ。
「よろしく。なかよくしてね、えいじくん」
 握手はする必要がなかった。助け起こしてやってから、ずっとユナの手を握ったまま忘れていた。ユナは離せと言うでもなく、ニコニコ笑っている。その顔を見ていたら、離さずともよいかという気になった。
「いくぞ、おくれると八神のやつがうるさい」
「やがみせんせい?」
「あんなやつ、せんせいと呼ばずともよい!」
「びりーくんもやがみせんせいのことキライって言う。なんでだろね。ネコちゃんにやさしいのに……」
「やさしいのはネコにだけだ。子供をまるやきにして食いそうな顔をしているではないか」
 きょとんとしているユナに言い返し、さらに一つ二つ、八神庵の極悪エピソードを教えてやろうとしたところで、ふと頭上に影ができた。
「ほう、誰が子供を丸焼きにして食うと?」
「げっ」
 噂をすれば、だ。
 振り返ると、ビリー・カーンを小脇に抱えた八神庵が呆れ顔で立っていた。
「今年もお前とビリーは俺が面倒を見てやる」
「ことわる!」
 即答で拒否して踵を返すも、あっさり首根っこを掴まれる。こうなったらもう、泣こうが叫ぼうが暴れようがどうにもならない。庵は唸る影二をユナごと抱え上げると、何事もなかったように歩き出した。
 反対側ではビリーがわめいている。
「はなせ! ギース様に言いつけるからな!」
「そのギース・ハワードからくれぐれも頼むと言われているのだがな……悪ガキどもめ……」
「ちっ」
 腕の中で揺られながら、近い位置にあるユナの顔を見る。彼女はよく分かっていないのだろう。灰色の睫毛をしぱしぱと瞬かせて、ほんの少しだけ楽しそうにも見えた――その顔に、もう一度どきりとして、影二は慌ててそっぽを向いた。




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