篝火にたちそふ恋の煙こそ

「エアコンが壊れた」
 そう告げてきた従姉は、絶望的な顔だった。

 八月中旬。外では蝉が暑苦しい求愛を繰り返している。夏真っ盛り。気温は35度を記録し、テレビからはしきりに熱中症の危険性を訴える声も聞こえて――彼女はそれすら暑苦しいと言わんばかりに電源を落とした。
 ぶつんと音を立て、液晶画面が暗転する。
「修理を頼めばいいだろ」
 ソファの上で氷菓を食べながら、馬狼照英は顔を顰めた。
 高校一年の夏休みである。
 数日前に――形ばかりの――合宿を終え、短い夏休みを満喫しているところだった。盆が過ぎれば夏の大会もある。
「今は、夏なんだ」
「はあ」
 今更だった。だからなんだという話でしかない。
 ――お前、暑さで頭までやられたのか。
 言葉にするすんでのところで飲み込んだが、付き合いの長さと親密さを思えばそれこそ今更だ。
「そうじゃなくて」
 さすがにいくらかムッとした顔でかぶりを振って、夜霧。
 汗で額に張り付いた前髪を煩わしげに掻き上げ、吐息を零している――熱を含んだ唇は、どきりとするほど美しい。
「この時期は工務店も混みあっていて、すぐには来られないそうだ。早くても来週の半ばになると……」
「…………は?」
 なんとなく見入ってしまったため、反応が遅れた。
「だから、来週半ばまでエアコンが使えないんだ」
 わざわざ言い直す夜霧の律義さに半ば呆れ、感心もしつつ。遅れて現実が追いつけば、目の前の彼女とまったく同じ顔をするしかなかった。まるで鏡写しのように絶望しながら、溶けて落ちそうになっていた氷菓を一口で飲み込む。
「――どうすんだ。それまで」
 こめかみのあたりが鈍く痛んだのは、冷たさのせいばかりではないだろう。氷菓を食べていない夜霧が、やはり同じように頭を抱えていることを思えば。
「……伯母さんから扇風機を一台借りてきたんだが」
「ああ」
「一台ではわたしたちの部屋には行き届かないから」
「ああ……?」
「修理が済むまで、仕切りを開けておけばいいと……」
 つまりは、そういうことになった。
 ――いや、そういうことになったじゃねえんだよな。
 ふたりで使っていた子供部屋を間仕切りで分けたのは、妹たちが生まれた頃だ。そのとき、両親はこう言った。
「ふたりともお兄ちゃん、お姉ちゃんになるんだから」
 それが本音だったのか、建前だったのかは分からない。ともかくふたりだけの箱庭を壊されて、十余年。
 いつでも互いの気配を探っていた。眠れない夜は隣へ声を掛け、間仕切り越しに他愛のない会話を交わすこともした。
 今は――
 氷嚢で頭を冷やしながら、ようやく寝付いた従姉の顔をじっと見つめる。頬に触れれば少し汗ばんだ肌がしっとり吸い付いて、誘われているようにも思えた。
 さながら夜に焚く篝火のごとくに。
 火影に集まる夏虫か、でなければ魚のごとくに。
 指先を滑らせ唇に触れる。日頃から引き結ばれてばかりいるイメージからすれば意外なほどに、柔らかい。
 ふに、ふに、ふに。
 なんとはなしに押して遊べば、それが煩わしかったのか夜霧は悩ましげに眉をひそめた。吐息が零れる。
「ん……」
 その声を聞いたら堪らなくなってしまったのだ。
 指先の代わりに顔を寄せる。熱を含んだ吐息が、照英の唇を掠めていった――だからだ。
 ちゅ。
 吸い寄せられるように、そのまま口付けた。
 たったそれだけのことだった。
 けれどそれだけのことで、心臓は激しく音を立てていた。
「夜霧……」
 荒くなる息を引き絞り抑えこんだとしても、衝動までは収まらない。従姉の名を呼んでしまえば、猶更に。
 触れるだけの口付けですらうっすら色付いた唇に、もう一度触れる。歯の先でやわやわと食む。舌先でなぞる。
 髪が張り付く濡れた項に、深い溜息とともに顔を埋めた。首の下の氷嚢はもうすっかり溶けていた。生ぬるい扇風機の風が体の表面を撫でていったところで、熱は収まりもしない。

 ◆◆◆

 瞼越しに射し込む陽射しは、夜の罪を咎めるかのように鋭かった。「照英」近い位置から夜霧の声が聞こえてくる。
「照英、やっぱり夕べはよく眠れなかったのか」
 そこでようやく目を開けると、覗き込んでくる従姉と目があった。照英だけに向ける、穏やかなまなざしだ。いつもとなにひとつ変わらない。彼女は知らない。気付いていない。
 ――変なところで呑気なやつ。
 苦笑を呑み込み、代わりに言った。
「お前は、よく眠れたみてえだな」
「ああ」
 頷いた従姉は、珍しく少しはにかんでいる。
「お前と二人だけの子供部屋だった頃を思い出したから」
「……そうかよ」
 そりゃよかったなとは言えずに、相槌をひとつ。
 従姉は少し訝ったようだが。
「俺は、もう少し寝る」
「昼には起こすよ」
「ああ」
 皺のないベッドに転がったまま、もう一度短く頷いた。
 扇風機の風がそよりと頬を撫でていく――その心許なさに、やはり昨晩を思い出さずにはいられないのだ。唇の、肌の感触はすっかり焼き付いて、この身を焦がしている。
 ――今夜も、俺はきっとあいつのベッドへ行くんだろう。
 確かな予感とともに目を瞑る。
 遠く、窓の外では変わらず蝉が求愛を続けていた。





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