お前とふたりの箱庭に



 ――ずっと二人きりの世界だった。そうあればいいと思っていた。
 腹が減っては泣きわめき、母親の乳を求めていた頃の記憶がある――といえば、妹たちは「嘘でしょ」と言って笑うのだろうが。馬狼照英は確かに幼い日の光景を覚えていた。白くて高い天井。襁褓を取り替えていく母親の手。母乳の甘い匂い。そして、覗き込んでくる彼女の丸い目。
「イトコノショウエイクンヨ」
 音が聞こえた。
「ナカヨクシテアゲテネ、オネエチャン」
 それがなにを意味するのかも分からないまま、伸びてきた彼女の手が頬に触れた。くすぐったいような、嬉しいような、奇妙な心地でその手を握ったことも覚えている。
「ショエ」
 彼女が、馬狼夜霧がまだ「照英」の一言すら満足に発音できなかった頃の話だ。照英が、それに言葉で応じるでもなく笑って返すことしかできなかった頃の話だ。
 その瞬間、世界は二人になった。
(なんでこうなったんだろうな)
 馬狼照英は考える。
 やけに目に痛い、いかにもなピンク色の部屋。とはいえ実際に足を運んだのは、互いにはじめてだ。はじめてだと思う、彼女も。隣をちらと見る。従姉と目が合った。
「……ええと、風呂に入った方がいいと思うんだが」
「気が合うな。俺もそう思う」
「だったら、照英が先に」
「俺が出るの待ってたら、お前が風邪引くだろうが」
 部活のない放課後は待ち合わせるのが暗黙の了解になっていた。どちらからそれを言い出したのかは、今となっては覚えていない――というのは、厳密に言えば正確ではない。夜霧はいつでも「照英の時間を奪いたくない」と言って、この放課後の過ごし方に難色を示している。そのたびに、うるせえと黙らせるのは照英の方だ。
 夕立ちだった。こういうときにかぎって、家から遠い繁華街まで出てきていた。あっという間に濡れ鼠になってしまえば適当な店内に避難するのも憚られ、雨宿りできそうな場所を探しているうちにホテル街まできてしまった――
 この状況を両親に釈明する羽目になったとしても、それだけのことでしかないのだが。
(まあ、それだけで終わるはずがねぇよな)
 途方に暮れた顔をしている従姉を見ながら、他人事にそう思う。
「早くしねえと俺が風邪引く。それは嫌だろ、夜霧」
 半ば自分を人質に脅す形で訊ねれば、この従姉が大抵の無理を呑んでくれることは分かっていた。さらに駄目押しで見つめる。ほんの二秒ほど。
 案の定、夜霧はあっさり陥落した。
「……そうだな。お前に風邪を引かせたくない」
 嫌になるくらい物分かりのいい従姉だ。嫌になるくらい、従弟本位な彼女だった。

 猫足のバスタブに湯を張りながら、濡れて肌に張り付いたシャツを脱ぎ捨てる。がちゃちゃと乱暴にベルトを外す。自分で立てるその音になんとなく興奮しながら、照英はちらりと隣に視線をやった。さすがに冷えた服を着ているのは辛かったのか、案外あっさり下着姿になった夜霧と目が合う。
「あまり見ないでくれ」
 酷く憂鬱そうな顔で彼女が呻いた。
 黒のレースでは隠しようもないくらいに膨らんだ、胸のあたりを手で隠しながら。
「照英みたいにはなれなかった」
「当たり前だろ、女なんだから」
 彼女が嫌う言い方で返してしまったことを、一瞬だけ後悔しないではなかったが。すぐにかぶりを振って、話題を変える。
「ほら、さっさと脱いじまえよ。それも」
「分かっているから、向こうを向いて――」
「うるせえ、早く脱げ」
 身もふたもなく言い放ち、下着をはぎ取った。半泣きの彼女を風呂に突き飛ばして、二人で湯船に沈んでしまえばいくらかは落ち着く。
「体を洗わなくてよかったのか、先に」
 そんなことを気にしはじめた呑気な従姉に、少し笑った。
「……お前も大概、ずれてるよな。いや俺が言えたことじゃねぇけど」
 肌の上を滑っていく湯を指先でなぞっている、その手に手のひらを重ねる。
「夜霧」
 耳元に吐息ごと吹きかけると、夜霧は少し肩を震わせた。
「ガキの頃と一緒だ」
「なにが」
「俺とお前だけ」
 幼い頃の、二人だけの世界を思い出す。
 妹たちが生まれるよりずっと前。互いの境界がもっとずっと曖昧だった頃――
「あの世界が好きだった」
「照英」
「勝手にいち抜けしやがって、ふざけんなよ」
 唇に触れる。重ねる。舌をねじこむ。唾液をすする。
「ん、照英、だめ……」
「駄目だ駄目だって駄々こねるくせに、嫌だとは言わねえんだよな。お前」
「当たり前じゃないか」
 か細い吐息で囁いてくる。
 ――嫌じゃないんだから。
 見上げる瞳とかち合った。その瞬間に下腹が疼いた。
「……出るぞ」
「え」
 怪訝な顔の従姉を――入ったときとは逆に――浴槽から引きずり出す。
「ちょっと待て、入ったばかりじゃ……」
 ないかと言いかけた彼女の視線が、こちらの下半身のあたりで止まった。
「な、なんだそれ」
「お前がこうしたんだろうが」
「わたしは」
 この期に及んで煮え切らない。腰の引けている夜霧をやはり引きずるようにして、ベッドへ転がした。シーツの上で白い裸体が跳ねるのを見下ろして、息を吐く――
「腹をくくれよ。どうせ誰も見てねぇんだ。それでも建前が必要なら……」
 ベッド脇にあった玩具をひとつ取り上げる。鈍い銀色に光る手錠を見ると夜霧はさすがに慌てたようだったが、今更逃がせもしない。掴んだ手に二つの輪を掛け、
「犯す」
 宣告した。たった、一言。
「ま――」
「待てるか、馬鹿」
 もう先走りの滲んでいる亀頭を彼女の入口にあてがう。
 ぬち、と音がした。少し押し進めればすんなり飲み込んでくれそうな気配もあった。それで堪らなくなってしまった。堪らなく彼女がほしかった。でなければ取り戻したかったのかもしれない。
「いつも、自分は違いますって顔しやがって」
 怒気とともに貫いた。「いっ」夜霧の細い喉から零れた、その苦鳴に安堵する。
「――他に男がいたら、そいつを殺そうと思ってた」
「わたしの世界は、いつだって照英だけだ。照英だけでいい」
「言ったな。聞いたぞ」
 衝動のままに突き上げる。太い楔を打ち込むように、何度も何度も。その合間で、喘ぐ夜霧の額に口付けた。そこだけはいつでも正直に愛を告げてくる、潤んだ瞳に告げる。舌打ちとともに――こんなことは言いたくなかった。だって恰好つかねえだろ。
「いつも俺にばっかり奪わせやがって」
 声はわずかに震えた。なんて無様なんだと唇を噛んだ。
「……照英」
 少し力を込めるだけで外れてしまう。その程度の枷だ。
 自由になった両腕で照英の頭を抱くと、夜霧は切なげな声で告げてきた。
「だって、際限がなくなってしまうじゃないか」
 そのままトンと照英の体を後ろへ倒して、優しくのしかかってくる。
「全部取り戻したくなってしまう」
 腰を沈めてくる。圧迫感で胸が震えた。あるいは、その言葉にか。
「取り戻せばいいだろ」
 それには答えず、夜霧が腰を揺らす。
 その唇から控えめな嬌声が零れるのを聞いて――
「自分の気持ちいいとこにばっか当てて、善がってんじゃねえ」
 主導権を渡すつもりもなく、腰を掴んで下から突き上げた。
 どこかで見たような、不敵なまなざしとかち合う。
「奪えと言ったり一人で善がるなと言ったり、我儘だ」
「王様だからな」
「ああ。わたしの――」
 体を前のめりに倒して、貪るように口付けてくる。咥内に押し込まれた薄い舌に歯を立てた。じわりと滲んだ血の味が甘い。いくらかは同じ血が流れているのかと思うと酷く昂った――それはきっと夜霧も同じだったのだ。
 飲み込んだ照英のものを、ぎりぎりと締め付けて、猶も求めてくる。普段澄ましている従姉が自分の上で猥らに腰を振っている姿は、なんとなく笑えた。お前、そんな顔もできたんだな。思わず零すと、彼女は唇の端を歪めて同じように笑ってみせた。
「寝た子を起こしたのは、お前じゃないか」
「ああ。昼寝にしちゃ、長かった」
 ようやく二人だけの世界に戻ってきた心地で、どこか感慨深く息を吐きだす。
 夜霧は少し微笑むと、はじめてのあの日のように頬に触れてきた。
 その手を掴む。こちらも、あの日と同様に。
「覚えてるか」
「覚えていないはずがない」
 それだけで十分だった。もう、言葉はいらなかった。荒い吐息だけが互いの体を掠めていった。獣よりもいっそう獣じみていた。上にいた夜霧を引き摺り降ろし、首に噛みついて抑え込む。一方で背中に立てられた彼女の爪が、その痛みが心地よい。両手でこじ開けるようにして、ふたたび股を割り開く。粘つく男の体液でどろどろになったそこを見ると奇妙に興奮した。独占欲と優越感だった。
 ――潔癖なこいつを汚したのは俺だ。俺だけが。
 熱く反り立った肉棒を押し込む。腰を打ち付ける。ばちゅばちゅと音が鳴るたび、夜霧が鳴き声を上げる。語尾を甘く震わせて、なにを言っているのかも分からない。いや。「しょ、え……」なんだ、お前まだ俺の名前を上手く言えねえのかよ――喉を鳴らして、喘ぐ彼女の耳元で照英は繰り返した。ゆっくりと。
「照英」
「しょ……」
「しょうえい」
「しょう、えい♡」
 ――おい、やめろ。お前のそんな声、俺は知らねぇぞ。
 それで暴発してしまったというのは我ながら情けない話だった。クソ、クソが。声には出さず毒づいて、夜霧の体を抱く腕に力を込めた。まだ射精の続いている先端を奥にぐりぐりと押し付ける。ウラッ、死なばもろともだ死ね。

 ◆◆◆

「……死ねはないんじゃないか、さすがに」
 ベッドの上で四肢を投げ出しながら、夜霧が思い出したように呟いている。時折身じろぎしてはシーツの汚れに顔をしかめているが、起き上がる体力はないようだった。
 照英も同じように落ち着かない心地で寝ころんだまま、体のすぐ隣にあった従姉の手を取った。指を絡める。ついさっきまで体を重ねていたのに、離れてしまえばもう恋しくてたまらない――仕方ねぇよな。物心ついたときには、こうだったんだ。
 内心でひとりごちて、従姉に答えた。
「死ぬときは一緒に死んでやるってんだから、文句言うんじゃねえよ」
 




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