何度言わせんだよ

 幼い頃の記憶は、いつだって彼女とともにある。
 姓を同じくする従姉の話だ。仕事の都合で一年のうちのほとんどを海外で過ごす伯父夫婦は、ひとり娘を我が家に預けて滅多に連絡を寄越すこともない。血の繋がった姉、あるいは半身と錯覚する程度には、俺たちは二人だった。
 家の中で彼女だけがどうやら違うらしいと気づいたのは妹たちが生まれてからだというのだから、我ながら鈍いと言うほかないのだろう。たった一年早く生まれたばかりに俺より大人でなければいけなかった彼女は、ただ二人きりの俺たちであったことも忘れたように、四親等の親族になってしまった。他人にもなれず家族にもなれず。
 ――そのことが、俺はたまらなく許せなかったのだ。
(まあ、ガキだったんだよな)
 二月になると、なんとなく思い出すことがある。
 ソファの上でぼんやりしながら、窓の外を眺める。夜半過ぎから降り続いていた雪は止んで、今は地上にだけその名残をとどめていた。空調の効いた清潔な部屋も、子供(ガキ)の頃から変わらない。珍しくそわつく俺のとこにやってきたあいつが、馬狼夜霧が、こちらも珍しく緊張気味に箱を差し出してきて、一言――照英、受け取って――と。
「夜霧。なんか俺に言うことねぇのか、他に」
「ハッピーバレンタイン」
 そうじゃねぇだろ、とは言えなかった。
 従姉らしい几帳面な―味気なく感じるほどに几帳面な――菓子の包みを抱えながら、ただ一言の抗議さえできなかった俺に、彼女は少しだけ困ったように笑った。
 なにもかも分かっているくせに狡いやつ。
 幼心に腹を立て、近所の同級生たちに八つ当たりをした。母親に怒られたような記憶もある。それでいっそう意固地になって家出した俺を、迎えにくるのはやっぱりあいつの役目だった。ひとけのない、雪の積もる冷えた公園で二人。
 ジャングルジムの天辺で見下ろす俺と、見上げる夜霧は差し詰め家来のように恭しく、ああ、それでも俺にとってはただひとりの。「照英」俺を呼ぶときだけ、ほんのわずかに優しくなる従姉の声が好きだった。だから彼女がしびれを切らすまで、腹を立てたふりで聞き流した。
「照英、照英。一緒に帰ろう」
 たった一歳しか違わないというのに、酷く大人びた口ぶりだった。そのくせ、ジャングルジムを掴む指先は不安になるほどほっそりとしていた。少し足を前に出して踏みつけたら、ぽきりと折れてしまいそうなほど。
「夜霧」
 その瞬間にぞっとして、勢いよく飛び降りたことを――
 覚えている。
 隣では目線を上げたままの夜霧が、目を丸くしていた。驚いた顔があまりに歳相応で、途端におかしくなったのだ。地に足を付けてみればそんなものだと気付いたのも、その瞬間だったような気がする。気のせいでなければ。
 五センチの身長差だけが気に入らなかった。
 ただそれだけが。
 だから彼女の腕を掴んだ。体重をかけて思い切り引いた。子供なりの力だ。それだけで十分だった。前のめりになった従姉の唇に、思い切り噛みついてやるには。
「しょう……」
 自分の名前とも呻き声ともつかないそれを呑み込むことが、あんなにも心地よいとは思わなかった。彼女の破れた唇から滲んだ血が、あんなに甘いとも。
「こっちの方がいい」
 ――どんな菓子よりも、俺はこれがほしい。お前がいい。
 そんな告白よりも渾身の菓子を否定されたことの方を拾い上げて傷付くのは、夜霧らしい話だった。
 何度か瞬きをして「もっとうまくなるから」と言う彼女に、そうじゃねぇんだよと思いながら。俺は、俺はただ、お前がほしいだけなんだと言えなかったあたり、俺たちはあの頃からずっと似た者同士なんだろう。たぶん。

     👑

「照英」
 ハッピーバレンタイン。
 ソファの後ろから包みを差し出してきた、その手を掴む。肩越しに振り返れば親兄弟よりも見慣れた顔が、これまた見慣れた微笑みを浮かべていた。
「他に言うこと、ねえのかよ」
 やることは十年経っても変わらない。今更変われもしない。
「好きだよ、照英」
 あの頃よりいくらか素直に、夜霧が言う。
 俺の方はあの頃より、もっとずっと強欲だった。
「そんな生ぬるい言葉で誤魔化そうとすんな」
「誤魔化そうとしてるわけでは、ないんだけど」
 困ったように瞬きをひとつ、ふたつ。嫌になるほど長い睫毛がその表情に陰鬱な影を落とす、そのさまを眺めながら続く言葉を待つ。ややあって、不意に顔を寄せてきた彼女が耳元で囁いた。今日はバレンタインだから特別なんだと余計なひとことも忘れずに、
「わたしには、いつだってお前だけなんだ。お前だけ」
 ――言わせないでくれ。
 祈るような懇願はいつものように聞き流した。代わりに肩をぐいと引いて――そんなことをしなくても、いつの間にか彼女の背を抜いてしまった――あの頃と同じように。
「こっちの方がいいって」






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