霜月、某日に

 酷く冷える夕だった。
 鮮やかな夕日に照らされた夜霧の横顔は、いつもどおりに美しかった。ただ寒さに赤く染まった鼻の頭だけが、なんとなく痛々しくも見えた。
 だからだ。
「行ってくる」
 そう告げる声が、わずかに感傷を帯びたのは。
 馬狼照英は顔をしかめ、それでも従姉の横顔を見つめていた。
 同じ血を引く冷たい瞳が途端に甘く和らいで、照英の目を見つめ返してきた。それも、いつものことだ。強化指定選手に選ばれたことを報告した際の会話も含めて一切の変化を見せなかった従姉は、どこまでもいつもどおりだった。
「気を付けて」
「他になんかねえのかよ、流石に」
「なにを言えと」
「頑張れだとか、他のやつに負けるなだとか、寂しいだとか」
 本気で、そんな安いやり取りをしたいわけでもなかったが。
「……今日はそういう気分なのか」
 駄々を捏ねてみせたとき、諫める代わりに少し笑う。
 その顔が堪らなく好きなだけだ。堪らなく。
 無言のうちに強請り続ければ、折れたのは彼女の方だった。
「照英」
 夜の気配に溶けていく、静けさと傲慢さを孕んだ声だ。すぐさま唇を塞いでしまいたいような、もっと聞いていたいような――落ち着かない心地で一つ年上の従姉を見つめる。
「お前よりサッカーの上手いやつなんていない」
「ああ」
「仮にいたとしても、すぐに踏み潰していくんだろう」
「ああ」
「ほら、言うべきことなんてひとつもなくなってしまった。お前は王様だ。非の打ち所がない、ただひとりの完璧な男だ」
 プライドの高い、嘘吐きな赤い瞳をじっと覗き込む。
「それだけか?」
 問いかけに、答える声はなかったが。
 地の果てに沈む夕日の代わりに、夜の帳があたりを暗く包みはじめた頃。互いの表情だけがようやく見える薄闇の中で、夜霧が口を開いた。
「言わせないでくれ」
「言え」
「困らせたくない」
「俺が聞きてぇんだよ」
 なあ、夜霧。
 駄目押しをすれば、彼女はそっと溜息を吐いた。
「寂しいよ、照英」
 途方に暮れた声で、続けてくる。
「お前がいないと、どうやって生きていいのかも分からない」
「そこまで言えとは言ってねえ。0か100はやめろ」
「だ、駄目出し……だから言ったのに……!」
 がん、とショックを受けて項垂れる夜霧の頭を軽く撫で――
「いい子で待ってろよ、姉ちゃん」
「姉ちゃんはやめてくれ」
 すっかり冷えた鼻先にキスをひとつ。
 ちゅ、と。静けさの中やけに大きく響いたリップ音を聞きながら、唇にすればよかったなと後悔しないではなかったが。
「留守番代には、少し足りないな」
 離れかけた、その距離を埋めるように。背伸びした夜霧が珍しく唇を重ねてきた。いつだってやり残したことを卒なく片付けてくれる――そういうところも好きなんだよな、と、どこか他人事のように思う。
 ただ触れ合うだけの、子供じみた口づけで数秒。
 どちらともなく体を離した。
 間を吹き抜けていく風が、やけに冷たい。
「これでも足りねえだろ」
 背を向け、照英は小さく呟いた。
 ああ。と頷く従姉がどんな表情をしているのか、確認する気にはなれなかった。鏡映しに、自分も同じ顔をしていることは分かっていた。分かりきっていた。
 ――いつだってそうだ。いつだって。
 彼女との別れの瞬間は、体の一部を持っていかれるような痛みを伴う。幼い頃からそうだった。これからも変わらないだろう、おそらく。だから告げた。極力明るく尊大に。
「残りはツケとけよ。帰ったら、払ってやる」







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